2019年07月27日

孤独と憎悪。

人は、人の輪の中でしか生きていけない。
孤独は、何よりも辛いもの。

自分が世の中の誰からも、見向きもされないとしたら、それは自分自身に存在意義がないと考えるべきか。
それとも、社会の側に存在意義がないとみなすのか。

「所属と愛情の欲求」や「承認欲求」の欠乏は、時に人を憎悪に駆り立てる。
「こんなに自分は素晴らしい人間なのに、どうして誰からも相手にしてもらえないんだ」

世界に70億人の人間がいても、結局は自分というフィルターを通してしか、世の中とは関われない。
つまり、自分の感じた世界こそ、すべて。

孤独であれば、考えに共感してくれる人はいない。
誤った考えを訂正する人間もいない。

彼は部屋に引きこもり、“なにもしていない”。
ただ、その胸の内に孤独と憎悪を育てているだけだ。

寂しさは、人の暖かさでしか救われない。
それは多くの場合、待っているだけでは得られないものだ。

他者は、自分の感情を映す鏡のようなもの。

ぬくもりには、ぬくもりが。
憎しみには、憎しみが。

ぬくもりと憎しみは、他者への関与という意味では同質のもの。
愛情ゆえの憎しみ、というものもある。
「自分をわかってほしい、相手をわかりたい」ということだ。

愛情と憎しみの対義語は、無関心。
いてもいなくても同じ。
空気のような存在。
そんな存在の軽さに、自我が耐えられなくなる。

もっとも苦しいのは、無視されること。
存在を否定されてしまうこと。

だから、孤独は苦しい。

心は自我を肯定する言い訳を始める。
「自分は正しい」。

ネガティブな感情の発露は、さらなる孤独の悪循環を産む。
攻撃性が自身に向くと、自傷行為や自死念慮となり。
他者に向くと、社会に倒する憎悪犯罪となる。

僕は、京都アニメーション放火殺人犯の言う「パクりやがって」の意味不明な犯行動機は、そうした感情の発露ではないかと思う。
時折起きる、孤独な若者の通り魔的な犯罪は、世の中に無視され続けた人間の断末魔に見える。

だからといって。
人の輪に入る努力をしないものに、他人の人生を踏みにじる資格などない。
どれほど世の中を恨んでいたのだとしても。

人は、人の輪の中でしか生きていけない。

どんな場面でも共通して言えることがある。
愛情やぬくもりは、与えられるのを待つのではなく、自分から率先して与えなければならない。
与えたならば、見返りを期待してはいけない。
自分から「してあげた」と言いふらさないことも大切だ。

当たり前のことだけど、大人になるほど見落としてしまう。

いま一度、胸に刻みつけておこう。
posted by メタマネ佐藤 at 00:13| Comment(0) | 日記

2019年07月24日

小さな嘘。

小さな嘘ってありますね。
「このくらい、なんてことはないだろう」という。

人の誘いを断る時に、嘘の予定を言ったり。
ちょっとした愛想のつもりで言ったり。
それらしく言い訳してごまかしたり。

その多くは、少しでも相手によく思われたいという、「保身」の気持ちが吐かせるものです。

小さな嘘が怖いのは、それを言っている自分自身が「このくらい、大したことはないだろう」と思ってしまうことです。
実際、大したことはない。

しかし、小さな嘘というのは、嘘をついている自分自身が「悪いと思っていない」ことに問題があるのだと僕は思います。
ごまかすことに慣れてしまうというのでしょうか。

最近、ものすごく世間を賑わせている闇営業問題ですが。
私は当初、「こんなことがなぜ問題なのか」と思ってました。
しかし、ごく直近になって意識が変わりました。

発端は、小さな嘘と保身。

会社に嘘をつき、世間に嘘をつき。
誤魔化そうとしたところが全て。

会社は、社員を守ろうとする。
ところが、自分たちにも小さな嘘を吐かれていたことがわかる。
これでは、守るに守れない。
要は誠実さの問題なのです。

小遣い稼ぎに若手を巻き込んで。
「会社の仕事だけでは食えないから」という議論になってるけど、違うでしょ。
体制批判するなら、こういうタイミングじゃなくて、健全な議論の中で、建設的にやることです。

たいしたことでもないのに、問題をおおごとにしたのは、小さな嘘に対する保身の悪循環。
あとは直営業を容認してきた、会社風土に問題があった。
これは、いずれも他人事ではないなと思いました。

会見について、いろんな意見がありますが。
その内容に、何か思うとすれば。
テレビに出慣れている人と、普段出ることがない人では、プレゼン力が違うな、ということです。

経営陣の方々は、本当に気の毒だと思いました。
タレントをマネジメントすることの難しさって、こういうことなんだなと思ってしまいました。
ちょっとした言葉のあやで、世の中を敵に回されてしまう。

私は、お笑いってほんとにすごいなと思ってますし、お笑い芸人さんの「おもろい」哲学は、世の中を変える力があると思っています。
ただ、内部事情とかは、そちらの世界の中でやってほしい。

今のやり取りは、笑えません。
ただひとり、松っちゃんはブレてないですよね。
ちょっとした笑いを交えつつ問題解決に繋げようとする。

宮迫と社長が乳首相撲すれば、すべて解決する。

僕も、そう思うな。
それを笑える世の中であってほしい、と思います。
posted by メタマネ佐藤 at 06:25| Comment(0) | 日記

2019年07月22日

みんなで京アニ作品を見ましょう。

先週起きた、あまりに悲惨な放火殺人事件。
誠実に、懸命に仕事をしていた人を傷つける行為。

あまりにも酷すぎて、許せないなどというレベルでは済まされない。
本来、個人のレベルで何か言うことではないかも、と思っています。
しかし、今日になって、私はこんな風に思いました。

これは、日本のアニメーションという「文化」に対する破壊活動。
すなわち、テロではないかと。

単なる犯罪のレベルでは済まされない。
犯人が、たとえ妄想に支配されていたのだとしても。
これはすでに、凶悪犯罪のレベルではなく。
日本の文化に対する破壊活動なのだと。
社会に対する破壊活動なのだと。
そう感じたのです。

だから、日本に生きる者の1人として。
京アニ作品を見る。
京アニ作品を買う。
そうして、文化を守る活動に貢献する。

そういう一人一人の一歩が大切なのではないかと思いました。

私は、恥ずかしながら、これまで京都アニメーションの作品を、あまり見る機会がなかったのですが。
アニメーションという文化を守るには、一人一人が、その価値を知ることから始めることが大切だと思うんです。

だから、みんなで京アニ作品を見ましょう。

彼らが伝えたいものは、ひどい事件ではなく。
作品の中にあるはずだからです。

何度も言います。
暴力に屈してはいけない。
いまこそ、皆で日本の文化を応援しましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 18:43| Comment(0) | 日記

2019年07月20日

アポロ11号。



宇宙船、アポロ11号が月面着陸して、今年で50年の節目を迎えるのだそうです。
それを記念して、アームストロング船長の宇宙服がスミソニアン航空宇宙博物館に展示されるのだとか。

アメリカ人にとって月面着陸は、フロンティアスピリッツの象徴的な出来事として、伝説になっている、というわけです。

これは、別のところで聞いた話ですが。
アポロ11号に用いられたコンピューターの性能は、初代ファミコン以下だったのだとか。
それを、人々の勇気と知恵で補い、人類史に残る偉業を成し遂げた。
そう考えると、本当にすごいですよね。

人の命は有限であり。
その時間をどう使うかは一人ひとりに委ねられています。

その限られた時間を、意義のあることに費やすのか。
だらだらと過ごすのか。
誰かの足を引っ張るために使うのか。
それを決めるのは自分自身です。

世の中に光を照らすような、偉業を成し遂げることはできなくとも。
身近な人の光になることはできるかもしれない。

光があれば、影もできます。
世の中、ままならぬものと思いますが。
せめて心がけとして、誰かの足元を照らす、わずかな光であるように。

おごらず、かといって卑下せず。
有限の人生の「一歩」を、日々刻んでいきましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 20:31| Comment(0) | 日記

2019年07月07日

結論延期能力。

image1.jpeg


だいぶ以前に見たテレビの話で。
心理学の植木理恵先生が、「結論延期能力」という話をされていました。

それを聞いた時、「へぇ〜、それも能力って言うんだな」と妙に感銘を受けたのです。
それから少し時間は経ちましたけども、私なりにその時感じたことを、まとめてみようと思います。

これは、読んで字のごとく「結論を曖昧なまま、先延ばしにできる」という心の力なのです。

一言で言えば、優柔不断とも言えます。
ですから対義語として考えると、即断即決ですね。
「白黒はっきりつけないと気が済まない」とか、「もやもやしたままでは耐えられない」といった人は、植木先生曰く“曖昧さへの耐性が低い”、ということになるそうです。

一見、「それっていい加減なだけじゃないの?」とも思いますが。
実は、これは心理学的に大変重要な意味を持っているそうなのです。

その理由はいたって明確。
世の中や社会に起きる出来事のほとんどは、白黒はっきりつけられるようなものではないから。
なんでも即決するよりも、慎重に考えた方がいい場面もありますよね。
ビジネスであれば、速やかな決断力が重要な場面も多いと思いますが、私生活においてはなんでも結論を出すのがよい、というものでもありませんよね。
とくに、家族の関係や、夫婦間の問題なんてのは。

このことから、曖昧さへの耐性が低いと、人間関係に良くない影響を与えるだけでなく、うつ病など、精神疾患の発症率が高くなってしまう、とのことでした。
あるいは、失敗や間違いを恐れるため、否定的な決断ばかりを下してしまうこともある、と。

なにより、あらゆる物事は、その場ではっきり断じなくとも、時間が解決してくれる場合もある。
情況が変われば、解決の糸口が見つかる場合もある。

そういったことから、その人の持つ「力」として、結論を先延ばしできるのも一つの能力と考えられるわけです。

ただ、もちろん優柔不断が全て正しい、ということではなくて。
心の健康や、強さという観点から見ると重要な要素だ、ということのよう。

みなさん、自分に照らしてみたとき、どんな風に感じられますか?
posted by メタマネ佐藤 at 07:13| Comment(2) | 日記

2019年06月25日

正見と邪見。

image2.jpeg


仏教には、物事を正しく見る「正見」という教えがあります。
まずは、ちょっとしたお話から。

室町時代、蓮如という有名なお坊さんがいました。
ある日のこと。

とんちで有名な一休さんが、立派な松の木の前に立て札をしました。
「この松が、まっすぐ見えたものには金一貫を与える。」

松の木は、ぐねぐねと曲がりくねっていて、どんな角度から見てもまっすぐには見えません。
見物客は、色々な角度に傾けて見たり、近くの木や建物によじ登ったりして、なんとかまっすぐに見える方法を探しました。
それでも、どうやってもまっすぐに見ることはできなかったのです。

そこに通りがかった蓮如上人。
「なんだ、そんなことか」と、こともなげに言いました。

「私がまっすぐに見てあげよう。
正直に、この松はねじ曲がっている、と言えばいいんだよ。
曲がっているものを、素直に曲がっていると見ることを“まっすぐ見る”と言うのだ」と説明したのです。
「白いものは白、黒いものは黒と、ありのままに見るのが正しい見方であり、これを正見という。
曲がった松を、なんとかまっすぐ見えるように見ようとするのは曲がった見方であり、これを邪見というのだ」

仏教の思想には、この「物事を正しく見る」という正見の概念があります。
要するに、物事をありのまま脚色せずに見る、ということなのですが。

この発想は、私達の仕事でも大切な、アセスメントの基本に通じる、と思います。

ケアマネとして利用者の方とお話しするとき。
冷静に、客観的に状況判断をしながら先方の話を聞くようにしますが。
それでも、ある程度は自分なりの見方や捉え方の“クセ”というのが出てきます。

「この人はこんな人」
「ここの家族は難しい」
「きっとこれは、こういう意味だろう」
といったように。

悪意はなかったとしても、先回りして補足的な分析を加えて、“こんな人”という像を作り上げてしまうことがある。
人間には多様性があるので、そんな簡単にカテゴリ分けできるものではないはずなのに。
自分の見たいような視点でしか、見えなくなってしまうんですね。

そうなると、自分の作った色眼鏡でしか相手を捉えることができないようになってしまう。
そして、自分がそんな色眼鏡をかけていることには、自分では気付きにくいんです。

これこそが、「邪見」の怖さ。

ですから、自分の見立てに自信を持って、疑問を抱かなくなるのは怖いことだと思います。
その一方で、いつまでも自分の見立てに自信が持てないというのも、それはそれで困りもので。
自信がないでは済まされないのが、この仕事の奥深さでもある、と日々思うのです。

結論。

ちょうどよいバランスで、自分や他人、物事を客観的に「正見」できることが必要なのです。
それは、生涯発達の視点で、自分の「目」を磨き続ける必要があるのかもしれませんね。
posted by メタマネ佐藤 at 01:00| Comment(0) | 日記

2019年05月28日

イヤホンでも違反になる場合。

image1.jpeg


車で携帯電話を使っていると、違反になることは皆さんご存知のことと思いますが。
イヤホンを使って会話していても、場合によっては交通違反になることはご存知でしょうか?

それは、携帯電話を操作するために、運転中に携帯電話の画面を注視した場合。
視線が逸れて注意散漫になるので、違反と取られてしまうのです。
これは、カーナビの使用でも同じことが言えます。

なので停車中に、携帯電話は操作しなくてはなりません。
ちなみに、信号待ちなどの間に携帯を操作することは、構わないとされています。

また、両耳にイヤホンをかける行為も違反となります。
運転中に、外から聞こえるクラクションや、緊急車両の接近音などに気づかなかったり、車の異常音に気付きにくくなる、という可能性があるからです。
これと同じ理由で、大音量で音楽を流しながら運転することも、違反になる可能性があるそうです。

細かな点は、都道府県条例や現場の警察官の判断に委ねられることもあるようですが。
運転中は、運転に集中しましょう、ということですね。

急に暑くなりましたし、集中力が散漫にならないように気をつけたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 07:27| Comment(0) | 日記

2019年05月20日

褒める 、叱る。

世の中には、褒めて伸びるタイプと、叱られて伸びるタイプというのがいるそうです。
当たり前のことですけど、叱られるのが好きって人は少ないですから、ほとんどの人は自分を「褒められて伸びるタイプ」と認識しています。

ただ、あきらかな課題がある場合は、「褒める」のみで対処できるものでは無い。
その場合は、それをどう指摘し、認識できるようにするかという“叱り方”が重要となります。

叱られる側からすれば、叱ることと、怒ることにあまり違いを感じないかもしれません。
ただ、大きく違うのは、叱る場合は相手に対する指導の意味を含んでいるのに対し、怒る場合は単純に感情が爆発している、ということです。

指導の意味があるということは、すなわちそこに愛情があるということ。
だからこそ、その気持ちや、指導の主旨が伝わるような「叱り方」を身につけておかねばならない。
そこには「どうしてちゃんとできないんだ」という“苛立ち”が含まれることが多いですから、叱る方には相当な感情のコントロールが求められることになるわけです。

そもそも指導が成り立つには、指導する側、される側という信頼関係がなければ成り立たない。
「私のいうことを聞きなさい」という姿勢では、人は動かないのです。
山本五十六は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という名言を残しています。
人に「動いてもらう」ことの難しさは、たしかにそのようなものであると思います。

ですから、上司部下という関係であっても、そもそも上司が部下に侮られているようでは、指導の関係は成り立たない。
仕事の関係と割り切って接するならば、業務上の指示は可能ですが、指導を受けたり、ましてや「叱られる」ことを容認できる関係性には到達しない、と考えられるのです。

つまり、それだけ「叱る」というのは難しい。
さらに言えば、叱られるばかりしていると、言いたいことも言えなくなって、萎縮してしまうようになります。
そうなると、仕事自体が成り立たなくなる危険性も出てきます。

一方、褒められる体験というのは、こころの報酬です。
褒められて、のびのび行動するからこそ、良いパフォーマンスが発揮できるようになる、とも言える。

いずれにしても、バランスよく「褒める」と「叱る」を使い分けることが重要なのですが。
そもそも、自分が人を褒めたり、叱ったりできるような人間なのか、という部分には疑問が残ります。
山本五十六のような、稀有な人物が上司になるわけではありませんから。

それでも。
自分に求められる役割がある以上、その責任には誠実でありたい。

そんな気持ちから、この記事を書いてみました。
posted by メタマネ佐藤 at 06:48| Comment(0) | 日記

2019年05月13日

ひらめきの価値。

-->
image1.png

今日はニュースから引用させていただきます。
とある福祉作業所の、一人の職員のひらめきから生まれたエピソードです。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

大阪市住吉区で、障害者が手作りした雑貨を扱うセレクトショップ「らふら」(社会福祉法人ライフサポート協会)では、ファーストリテイリングや繊維メーカーのクラボウ、ファスナーを手がけるYKK、デザイナーなどを育成する大阪モード学園、ミシンを扱うブラザー販売の協力を得ながら、3月からミニトートバッグを販売しています。

3月時点での制作者は、同法人が運営する生活訓練「つみき」の利用者で、軽度知的障害のある20代女性1人。もともと手芸が趣味で、「楽しい」と言いながら製作しているといいます。現在は少しずつ作り手を増やしながら商品作りをしています。

このバッグ、何がすごいかというと、材料費をほぼかけずに製作できているという点です。
バッグのデザインは大阪モード学園ファッションデザイン学科の学生が授業で考え、布地はユニクロの店舗で発生するハギレ、クラボウのサンプル反を無償提供してもらっています。また、YKKからはファスナーを、ブラザー販売からは縫製に使うミシン3台の無償提供を受けました。

なぜ大手企業などの協力を得た商品ができたのか、プロジェクトの中心になった法人職員で「らふら」店員の米田麻希さんに聞きました。

米田さんは学生時代、ユニクロでアルバイトをした経験があります。裾上げ後のハギレが廃棄されていることを知り、生かすことはできないかと考えていました。社会人になり、ライフサポート協会の法人職員となってからは、法人の独自商品を開発し、売り上げを伸ばすことで、法人内の作業所で働く利用者の工賃を上げることにつなげられるのではないかと考えるようになったといいます。

2017年5月、米田さんの経験と思いを法人内で共有すると、「ユニクロにメールしてみよう」と、ユニクロを運営するファーストリテイリングに早速連絡することになりました。実はファーストリテイリング、これまでも海外でハギレを使ったプロジェクトを展開してたこともあり、日本でも実施したいと考えていました。
両者の思いが合致し、その年の11月には東京のファーストリテイリング本社でプレゼンし、「プロジェクトへの想いだけでなく、目的や販売拠点を持ち、計画を立てている。是非協力させていただきたい」(ファーストリテイリング)と、とんとん拍子で事は進み、同社が以前からCSR活動に関する意見交換を定期的に行っていたブラザー販売やYKKと、らふらをつなぎ、プロジェクトの輪が広がっていきました。

ここで出てきた課題が「ものはそろったけど、デザインや縫製はどうしよう」。

「ユニクロは全国で展開しているし、福祉作業所も全国にある……。そうだ!全国展開をしている服飾系の専門学校に声をかければ、このプロジェクトがいつか全国的な広がりをみせるかもしれない!」
 
プロジェクトに関わっている人たちの総意が固まり、2018年4月にはモード学園に話を持ち込みました。ファッションデザイン学科の学生およそ40人の前で話をすると、デザイン案がなんと90近くあがってきました。
法人職員の間では、「全部いい!」となったのですが、コスト面などでファーストリテイリングからのアドバイスを受け、一次審査で13案まで絞られました。その後、法人職員や、「らふら」とゆかりのある子育て世代の意見を聞きながら5案にまで絞り、その後二次審査を経て3案を採用することになりました。

現在販売しているミニトートは、3案うちの1つで、残り2案はYKKから提供を受けているファスナーを使う予定だといいます。
今後は商品作りの担い手を増やすべく、法人内にある障害者活動センター「オガリ作業所」(生活介護・就労継続支援B型)の利用者にも関わってもらう予定です。
ファーストリテイリングの担当者は、「ユニクロの店舗から直接地域の施設の方にハギレをお届けする事で地域に貢献できれば、という思いで参加し、障害者工賃アップに今回の活動が良い影響を与えることができるのであれば、嬉しく思います」と話しています。

米田さんは「大阪は商売の町なのに障害者の工賃は低いまま。すぐに効果がでなくても、売り上げが積み上がった結果、工賃アップに繫げたい」と期待しています。

商品は1980円(税込み)で販売されていますが、現在在庫がない状態。在庫が出次第、「らふら」のSNSで告知する予定だといいます。
facebookはこちら
インスタグラムはこちら
購入は社会福祉法人ライフサポート協会「らふら」(大阪市住吉区帝塚山東5ー8−7)まで。

2019年05月12日

ぬりえ楽しい(笑)

image1.png



最近、ぬりえのアプリにハマってます。
使う色は決まってるんですが。
ぽちぽちやってたら、ついついやってしまいまして。

気付けばけっこうな時間が経過してしまうという。
ま、暇つぶしに最適ですね。

前から思ってたんですが、僕のブログって字が多くて理屈っぽいですよね。
なんか挿絵みたいなもんが無いかなーって思ってたので、暇つぶしと脳トレを兼ねて、ときどきぬりえの画像を添付してみたいと思います。
テーマに沿ったものじゃ無いかもしれませんけど、まぁ、べつにいいか(笑)

楽しいですよ、皆さんも是非どうぞ〜。
posted by メタマネ佐藤 at 15:03| Comment(0) | 日記