2017年09月18日

財布を変えてみました。

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どうも、メタマネです。

今日は、年に数回の天赦日だそうで。
僕にはなんのことだかよくわからないのですが、財布を変えたりするには良いらしいです。
なもので、これまで慣れ親しんだ財布を、新しいものに変えることにしました。

実はこれ、僕にとってはちょっとした冒険です。

僕は高校の頃から、ずっと2つ折りの財布を使ってきたのですが。
このたび、初めて長財布を使ってみることにしたんです。。

これは全くの迷信かもしれませんが、長財布を使う方が、お金が息苦しくなくて良いのだとか。
まぁ、お金を大切にするという意味で、お金のたまる人は長財布を使う、なんてことが言われてますね。
実際どうかはわかんないんだけども。

なんだか、お尻のポケットに突っ込んどくのが不安です。
ケツ圧で財布の形が変わるのも嫌だしね。

ともかくも、慣れしたんだものを変える、というのはなかなか勇気もいるし、最初は使いにくくて大変。
はやいとこ慣れなきゃいけないですね。
posted by メタマネ佐藤 at 23:59| Comment(0) | 日記

2017年09月15日

理不尽なことへの抵抗力。

世の中には、理不尽なことがたくさんあります。

もともと、自然な状態では、平和も平等も存在しない。
それらの概念は、人間が文明社会を築いていく中で、次第にはぐくまれていったものです。

歴史を紐解けば、そこには野蛮で強制的な、権力もしくは暴力による統治が行われてきたわけで。
それこそ、我が国でも戦後民主主義が生まれるまでは、思想の自由は無かった訳です。

つまり世の中には、理不尽なことがもともと溢れている、とも言える。

ただ、私たちは理性ある「文明人」であるから、道理にそぐわない、調和できない理不尽なものを、全体性の中で排除しようとしてきた訳ですが。
それでも、個々に見れば「理不尽な人」や「理不尽な集団」、「理不尽なルール」はまだまだたくさんある訳です。

で、現代に生きる私たちは、その「理不尽なモノ」に慣れてなくて。
これが問題になると思うんです。
理不尽なことはストレス溜まるからね。

所詮世の中は平等にはできていないから。
「どうして平等にしてくれないの?」と思ってもムダともいえる。
そんな風に言うとつまらないけど、ある面では、紛れもない真実だと思うんです。

では、どうすれば理不尽なことに立ち向かえるのか。

…これは少し寂しい話ですが。
理不尽なことには、立ち向かうという発想ではない方が良いです。
理不尽なことってのは、そもそも個人の力ではどうにもならないことがほとんどですから。

だから、理不尽なことには、本気で逆らわない。
これがまず第一の対処法かと思います。

そして次に、素直に従わない。
理不尽なことに対する、捉え方を変えるのです。
距離や時間を置くことができるのなら、なお良いと思います。

それでも、距離を置かせてもらえないような場合。

例えば、仕事で理不尽な人と会わないといけない。
あるいは、上司から理不尽な仕事を求められた。

そういう時は、どれだけ割り切れるか、です。
全ての人や事と、きちんと向き合うことはとても辛いこともありますね。
ただ、そもそも全ての人と信頼を結ぶ必要は無いですから、無理なら割り切って切り離してしまってもいいんです。
そのことで自分が壊れてしまいそうなら、逃避しても構わないわけです。

…とはいえ。
逃げたり、切り離したりすることにも勇気がいります。
決断が必要になります。

そういう時には、世の中は所詮、理不尽なものなんだ、ということを思い出してみてください。
そして振り返って、自分がまだその理不尽な状況に耐えられるならば、もう一踏ん張りしてみるのも、決して悪いことではありません。

なぜならば、この“理不尽さ”は、人を強くしてくれるものだからです。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と昔の人は言いましたが。
それは確かにその通りで。

嫌なことや理不尽なことから逃げるばかりしていても、成長は止まってしまう。
だから、ちょっと逆説的なようですが、理不尽なことに対する抵抗力というのは、生きるためには絶対に必要な力、とも言えるのです。

自分が壊れるまで理不尽さに耐えろ、とは言いません。
しかし、ちょっとした理不尽さに耐えられず、すぐに逃げ出すようでは、自立できない。

厳しいようですが、僕はこの「理不尽さへの抵抗力」が弱っているから、仕事が続かない若者が増えているんじゃないか、と思ったりします。

今の若者たちは、僕が若い頃よりも、ずっと理性的で賢い人が多いと思っています。
そして未来を担う、貴重な人財です。

いい人過ぎて、理不尽さに押しつぶされることがないように。
多少の割り切りと、居直る厚かましさみたいなものも、大切なことだと僕は思うんですよね。
posted by メタマネ佐藤 at 06:58| Comment(0) | 日記

2017年09月03日

失敗と向き合う。

失敗とは転ぶことではなく、そのまま起き上がらないことなのです。
(メアリー・ピックフォード)

みなさん、失敗してますか?

僕は、しょっちゅう失敗してます。
小さなことなら、毎日何かを失敗しています。
胸をはっていうことでは無いですけどね…。

さて。

失敗には、大きいのや小さいのがありますけど。
その失敗の“痛さ”というのは、必ずしも大きさとは比例しないようなのです。

“痛さ”というものは、その大きさよりも、むしろ“感じ方”による。

僕が一番失敗の“痛さ”を感じるのは、自分に嘘をついている時です。
それによって、近しい大切な誰かを、悲しませる時です。

本当にカッコ悪い。
自分でも悲しく情けない。

できれば、そういう想いはしたくないものだけど。
でも、そういう痛みは、生きて行く上で欠かせない大切なものを教えてくれると思うのです。

痛い思いはしたくない。
だから、失敗はしたくない。

それは、確かにそのとおり。
…でもね。

失敗を恐れて、何も行動できないのだとしたら。
それこそ最大の失敗だ。

失敗するというのは、貴重な経験をする、ということだ。
勝った喜びよりも、負けた悔しさが人間を強くするように思う。

失敗や挫折は、誰しも経験する。
ただ、なかなかその意味を深く考えようとしない。
なかなか自分の失敗を認めることができない。

自分の失敗を振り返ることは、辛いし、恥ずかしいからだ。

ただ。

自分のミスや誤りを、認めることができない人ほど、つまらないものはない、とも思う。

世の中には、自分の失敗の責任を認められない人、というのが少なからずいる。
意固地になって、自分の正しさを主張し、相手を常に悪者にする。
そういう人は、信頼に値しないですよね。

つまり。

人間関係において大切なことは、自らの正しさを証明したり、主張することではなく。
中立的、客観的に、失敗や間違いを認めることが大切なのです。
そのためには、失敗を恐れないことと、嫌われることを恐れないという、二つの勇気が必要なのです。

そして、できることなら。

他者の失敗に対しては、寛容でありましょう。
自己反省や失敗を容認できる社会のあり方こそ、人間味のある温かい社会、とも言えるはず。

まずは、自分の失敗と向き合うことから、始めましょう。




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posted by メタマネ佐藤 at 21:30| Comment(0) | 日記

2017年08月28日

歩く速さ。

人の歩く早さは、みんな違う。

早く歩く人は、遅い人にイライラするだろうし。
歩くのが遅い人は、早い人を羨ましく思うか、せわしなく息苦しい気持ちになるかもしれない。

また、その時と場合によっても、歩く速さは変わってくる。
いつもはのんびりしている人も、仕事ではまるで人が変わったかのようにあくせく働くかもしれないし。
普段はせかせかしていても、家庭ではうって変わってゆったり過ごす、ということもあるかもしれない。

あるいは、気分の問題で、歩く速さも変わる。
気持ちが暗く沈んでいるときの足取りは重い。
反面、気持ちが前向きであれば、羽が生えたように軽くなる。

いずれにしても、私たちはその人を知っているつもりでも、本当は一つの側面、一つの場面しか見ていない、ということなのかもしれない。

できるならば。
皆が、自分のペースで、気持ちよく歩けるように気をつけたい。

気持ちの良い人間関係とは、そのようなものではないかと僕は思う。
posted by メタマネ佐藤 at 21:45| Comment(0) | 日記

2017年08月22日

圧。

「圧」の強い人、弱い人というのがいますよね。

他者と会話をしていると、目には見えませんが空気圧というか、押しが強くて息苦しくなるような人がいると思うんです。
自己主張が強いとか。
他人の意見を聞かないとか。
見た目が怖いとか。
「威力」なんて言葉で表現する事もありますね。

反対に、圧に押し負け続ける人というのもいますね。
自分もいろんなことを話して、想いを主張したいのだけど。
我を通せないというか。
つい、相手に譲ってしまうというか。
立ち向かう力が維持できないというか。

今日は、そんな目に見えない人間関係の「圧力」について考えてみます。

常に相手の意見を受け入れるしかない状況というのは、はっきり言ってかなり強いストレス状態です。
おそらく、圧の弱い人は、圧の強い人が苦手だし、嫌いなことがほとんどです。
直接言わなくても、「厚かましい人だ」というふうに蔑んだりして。

ですが、相手を圧倒する側と言うのは、自分がそんな悪いことをしているとは、全く気付いていないことがほとんどです。
むしろ、当然の主張をしているだけだと思っている。
言いたいことがあるのなら、なぜ言わないんだ、と思っている。
だから、さらに強く相手を言い負かすように、圧をかけてしまうのです。

ここに、人間関係の悪循環が生じます。
相性が悪い、と一言で片付けても良いのですが。
例えば同じ職場内でそのような状況が生じているとしたら、かなり強いストレスにさらされ続けることになるでしょう。
これが夫婦だった場合には、生活が成り立たなくなってしまうことも。
最悪、離婚してしまいます。

先日、こんな話を耳にしました。

夫婦の間で、片方が潔癖症、片方がだらしない性格、という場合。
潔癖な方からは、だらしないパートナーに対して不満を感じることはよくあるのですが、離婚を申し込むことはほとんどないそうです。
反対に、だらしない側の方から、潔癖症の相手に対して離婚を申し込むことが多い。
「もうあなたに合わせるのは耐えられない」というわけです。

ここに、先ほど私が述べた、人間関係の「圧」の問題がある。

潔癖症の人は、自分自身の常識に基づいて、当然のことをしているだけだと思っています。
幼い頃からの生活環境や、習慣によって現在の衛生観念は作られますから、それに従って“普通”の行動をしているだけです。

そして、それはだらしない側のパートナーにとっても同じこと。
生育歴の中で、「少々の事は気にならない」という観念を育ててきたのです。

この場合、だらしない側の人は、潔癖症の相手に「なぜそんなこともできないの」と叱られ続けることになります。
価値観の相違なのですが、潔癖症の人が、だらしない相手に衛生観念を合わせていく事はまずありません。
なぜなら、自分のしている事は「正しく当然のこと」だからです。
一方、だらしない側の人は、常に相手の価値観に合わせ続ける、ストレス環境にさらされることになる。
この状況に、「疲れる」のです。
そして、パートナーを解消したくなる。

つまり、圧の強い人というのは、自覚なく相手を傷つけてしまうということに気をつけないといけない。
圧の弱い人は、相手の圧に負けないような強い自我形成に取り組まないといけない。
この両面の歩み寄りが重要なのだと思うのです。

もう一点気をつけることがあるとすれば、この人間関係の「圧力」は、その立場によっても変わるということです。

上司の圧力に向かわさらされ続ける。
これすなわちパワハラ。

異性の圧力にさらされ傷つけられる。
これすなわちセクハラ。

賢い人に、バカにされ続ける。
これすなわちアカハラ。

まぁ、なににしても。
相手の立場や気持ちを思いやれないのはダメだ、ということですね。

知らぬ間に、自分がそのような「圧」を他人に押し付けることがないように、気をつけたいものですね。
posted by メタマネ佐藤 at 22:52| Comment(0) | 日記

2017年08月14日

過敏反応は国を弱くする。

最近よく思うんです。
今の世の中は、ちょっとしたことに敏感に反応しすぎなんじゃないか、と。

政治家が失言したとか。
誰かが不倫したとか。
そういう話が多すぎます。

僕は、正直思うのです。
なんでそんなしょうもないことがニュースになるの?
ヒマなの?
平和すぎるのがよくないの?
その陰で、なにか大切なことを見落としてるんじゃないの?
…なんてね。

特に、国会議員の失言などについての批判的報道姿勢は、常軌を逸しているように思えます。
失言なんて、文脈を読まずに言葉の一部だけ切り取れば、あって当たり前だと思うんです。
ちょっと冗談のつもりで言ったとしても、それが「不謹慎だ!」って怒る人はいるわけで。
政治家さんってのは、一日中ずーっと喋ってる中の、たったひと言が不適切って言われたら、それで仕事無くなる可能性だってあるわけでしょう?
そういう言葉狩りを恐れていたら、それこそ何も言えなくなって。
議論そのものが狭小化する。

失言すれば、再起不能なほどに叩かれ、追い込まれるわけだから、大事な本音は、影とか地下で話をするようになっちゃいますよね。
だから、よくわからないまま、重要なことがするっと決まったりしてるんじゃないかな?とか思っちゃいます。

また、不倫の報道も、「いちいちニュースに載せるんじゃない」と思います。
そういうのに特化した、くだらない週刊誌の報道を後追いして、火に油を注ぐマスメディア。
テレビでやるなら、生産的でない時間帯の放送にとどめて欲しいけど、国民がそれを欲しているからトップニュース扱いなんですよね。
これぞまさに衆愚状態。

僕はそもそも、有名人が不倫したとか、他人のプライベートな話に、なんで目くじら立てて怒れるのかわからないです。
身近なテーマだから、ニュースとしての付加価値が高いのかな、なんて思いますがね。

そして、日本国民は。
そういう些少なことに対して、SNSなどで、容赦なく攻撃を浴びせるよね。
これがまた、なんとも情けない気持ちになるんです。

失言とかしないように、ミスしないように生きることが大切なんではなくて。
失敗を活かせるような、そういう懐の大きさみたいなものが、社会には大切だと思うんですが。

ケツの穴の小さい話ばかり。
そんなことだから、前にも出れなくなるんです。
ちまちましてて、本当に嫌になります。

もっと力を入れて考えないといけない問題は、たくさんある。

ちっちゃなことに過剰反応して、自己満足の世界にいたら、正念場で力を発揮することはできません。
厚かましい第三国に対抗することもできません。
ひいては、大切な私たちの国や家族を守ることもできなくなると、僕は思うんです。

だから、他人様の少々のことは、目をつぶったらいいじゃありませんか、と思う。

でもね。
たぶん、そういう話が本質的に「好き」な人が多いからってのも、あるんすよね…。
posted by メタマネ佐藤 at 18:48| Comment(2) | 日記

2017年08月08日

「だろう運転」と「かもしれない運転」

昔、自動車教習所に通っていた頃。
どうしても腑に落ちないことがありました。

それは、「だろう運転」「かもしれない運転」という言い方です。

なぜ腑に落ちないかと言うと。

例えば、かもしれない運転。
これは、見通しの良くない十字路などで。
横から自転車が飛び出してくる“かもしれない”というように、いつも危ない“かもしれない”という意識を持って運転しましょう、ということですよね。
この反対が、自転車が飛び出してこない“だろう”という、漫然とした“だろう運転”になるわけですが。

僕はこのふたつ、「日本語としておかしいんじゃないか」と思うわけです。

だって。

自転車が、飛び出して来る“だろう”と予測すれば、慎重な“だろう運転”と言えるし。
反対に、自転車は出てこない“かもしれない”と予測すれば、無責任な“かもしれない運転”ともなりうるわけです。

つまり。

“だろう”と“かもしれない”は、どっちも仮定の話をするときの接尾語であって。

「出て“くる”かもしれない」
「出て“こない”かもしれない」
「出て“くる”だろう」
「出て“こない”だろう」
という、打ち消すニュアンスが、文章に含まれているかどうかの問題なんですよね。

まぁね、確かに屁理屈みたいな話かもしれません。
でもね、なんか腑に落ちないんですよね。

ただ、それだけなんです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:27| Comment(0) | 日記

2017年08月01日

始まりと終わり。

物事には始まりと終わりが必ずあります。

どんなに辛い毎日であっても、その辛さには必ず終わりがあります。
その逆もしかり。

物事の終末は、必ずしも良い結果ばかりではありませんが。
それでも、必ず終わりの時が来るのです。

特に、今いろいろな悩みに押しつぶされそうになっている人は。
この言葉を、思い返してみると良いでしょう。

つらく苦しいときには、なかなかそのトンネルの出口が見えません。
永遠に続いていくかのように思われる、その暗く長い道のりは、将来に何一つ良いことが待っていないかのような錯覚を覚えさせます。

大概の場合は、いずれトンネルを抜けるタイミングがあるものですが。
ときには、行き止まりに突き当たることもあります。

しかし、行き止まりに突き当たるということを、恐れてはいけない。
それは、折り返し地点を知ると言う意味で、自分の限界点を知ると言う意味で、有意義な学習なのです。

つまり、辛く長いトンネルを抜けるということも、行き止まりに突き当たるということも、いずれにも価値がある。

さて、話を戻しましょう。

物事には、始まりと終わりが必ずあります。
出口がなければ、戻ればいい。
終わりの時は、必ずしもいい結果とは限らないけど。
それでも、その体験や経験は、必ず何かの役に立っていくのです。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:38| Comment(0) | 日記

2017年07月26日

最近のひどい話。

最近、ひどいな〜と思ったこと。

全国的に見れば、松居一○さんの一連の騒ぎ。
ネタ元もひどいし、ニュースで扱うのもひどい。
個人的なことを、日本中が共有させられる。
彼女は、通常の状態にあるとも思えないし。
SNSやネットの“悪いところ”が目立つ。
テレビで扱うのは、もう終わりにして欲しい。

二つ目は、国会議員の足の引っ張り合い。
これは、昔からあるし、今後も変わらないかもしれないけど。
誰が二重国籍だろうが、誰の友達がどうだろうが、「はげー」って叫ぼうが、ドウデモイイ。
要するに、あんたら自身の問題を、国会使って議論しないでよって思う。
国会議員は、国民の代表なんでしょ?
日本人として、恥ずかしい。

身近なところでは。
障害者を多数雇用している作業所の、一斉解雇問題。
大きなニュースにはなっていないけれども、これこそ大きく取り上げて欲しいニュースです。
詳しくは、是非みなさん自身で調べてください。
「障害者解雇 220人」で検索してみてください。

このニュースに、気になることは山ほどありますが。
事実関係の明らかでないことは、書くべきではないでしょう。
ただ、負うべき責任はきちんと果たしていただきたい。
それを願うのみです。

ただ、220人の暮らしは、これからどう守っていくのか。
この人数は“多い”です。
ひとつひとつが、個別性の高い問題でもあります。
本当に大変なことだと思います。

一つ目、二つ目の話は、取り上げなくてもいいニュース。
三つ目の話こそが、きちんと実態が明らかにされなくてはならないニュースではないでしょうか。

こう考えたとき。

本当にひどいのは、世の中のあり方そのものではないか、と改めて思ったのでした。
posted by メタマネ佐藤 at 18:34| Comment(0) | 日記

2017年07月18日

わが町への愛着と誇り。

三菱UFJリサーチが、市民のプライド・ランキングという面白い調査を公表しています。
これ、面白い調査なので、是非みなさんにも検索してもらいたいな、と思うんですが。

調査対象は、全国21の市町村。
この中には、我らが岡山市も入っています。
この調査は、その町に住んでいる20〜60代を対象として、200人ずつアンケートをとり、「わが町」の愛着と誇りを調べた、というものです。

で、結論。
愛着と誇りの第1位は、いずれも福岡市。
これは「さすが」としか言いようがないですね。

福岡に続くのは、京都市、神戸市、仙台市、札幌市といった、誰もが認める魅力的な町。
で、われらが岡山市は…愛着は下から5番目の17位、誇りは下から2番目の20位という散々な結果に。

要するに、「誇り」も「愛着」も低い、ということなんです。

都市のイメージに対する共感ワードの結果もひどい。

神戸市民の場合、上から順に「おしゃれ、国際的、便利、楽しい、ハイセンス、落ち着きのある、ロマンチック」というポジティブなワードが続きます。

これが岡山市民の場合は、「ほどほど、ゆったりした、地味、保守的、落ち着きのある、便利、伝統的」と続きます。

…そりゃ、神戸には勝てないよな…とは思いますが。
それにしても、酷くないですか?
まぁ、住みやすいって感じはありますけどね。

いずれにしても、「わが町」に対しての愛着や誇りが低いという結果は、かなり問題だと思います。
いみじくも、自己中心的で保守的と言われる県民性を露呈してしまったような。
そんな嫌な気持ちになってしまいましたが…。

でもね。
それは、あくまでも「イメージ」ってことですから。

実際に暮らしている僕は、災害も少ないし、交通の便もいいし、ほんとに住みやすい町だという実感はあります。
不満がないわけじゃないけど、いい町にしていくのは、僕ら自身の意識が大切ですから。

これは、直感的に思うことですけど。
「車線変更で指示器を出さないドライバーが全国一多い」と言われるあたりに、岡山県人の問題を感じるんですよね。
これ、「自分さえ良ければいい」という人が多いってことじゃないでしょうか。

自己中では、「わが町」への愛着と誇りは育たないと思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 21:48| Comment(0) | 日記