2018年05月23日

責任の所在。

先日、アメリカンフットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に行ったタックルが、監督の指示によるものだったのかどうか、ということが大きな話題になってますね。
これまで会見に臨んできた大学の関係者の話では、「全て私の責任です」とは言うものの、具体的に危険なタックルを指示したのかどうか、ということについては明言を避けていました。

それに対して。

昨日、実際に危険なタックルを行った選手自らが、顔を晒して、その経緯を説明されました。
…なんというか、たまらない気持ちになりましたね。
淡々と、誠実に語る様子に、身につまされました。

本当に酷い話だと思います。
相手に怪我をさせるしかないような、そして「もうアメフトはやらない」と言わせるまで若者を追い込んでおいて、平気な顔でいる監督やコーチ。

まぁ、平気ではないのかもしれませんが。
それにしても許せない話だと思いました。

前監督は、「全て自分の責任だ」などと言いながら。
いまだに責任逃れのコメントを出し続けている大学関係者。
その言葉を要約すれば、「選手の捉え方が悪い」ってことでしかありませんから。

あのタックル。
ある意味殺人未遂とも言える悪質なもの。
ひょっとしたら、頸損などで、一生の障害を残す可能性だってあるほどの、危険なものだったはず。

「やるしかない」ところまで、人を追い詰めておきながら。
「もう二度とアメフトはやらない」と全国に向けて言わせるまで、人を追い詰めておきながら。

いい大人が、何も言わないつもりなのか。
そのまま、大学に留まり続けるつもりなのか。
それで、チームを運営するものとしての、教育機関としての責任を果たしたと言えるのか。

選手1人を、会見に臨ませるほど追い詰めた、大学関係者の責任は重い、と言わざるを得ません。

「全て私の責任です」というならば。
「そこまで選手の追い込んだ」という事実に対して、誠実にならなくてはいけない。

勇気を持って会見に臨んだ選手の姿勢に、敬意を表するとともに。
彼が今後、これ以上不利益を被ることがないように、祈るばかりです。
posted by メタマネ佐藤 at 06:46| Comment(1) | 日記

2018年05月15日

説教、昔話、自慢話。

年をとってやっちゃいけないのは「説教」と「昔話」と「自慢話」。
ーー高田純次

テキトー男、高田純次さん。
しかし、この言葉からは、大人の思慮分別を感じますね。

僕は、高田さんのこの言葉、大好きなんです。

常々思っておりますが。
「最近の若い奴は」というのは、ろくな言葉じゃない。
だって、若くてもしっかりしてる人は、山ほどいますから。
おたくの若い頃はどうだったんだよ、と言ってやりたい。

そっから言うと、高田さんは粋ですね。
…なんか江戸っ子みたいな感じですけど。

そこで今日は、「説教」「昔話」「自慢話」について、考えてみましょう。

まず「説教」。
僕は、これは全て悪いとは思いません。
だって、熟練者が若い人を育てるのは、必要なことですから。
学校の勉強では教わらない“社会”のあり方とか渡り方を、自分なりの言葉で伝えるのは、とても重要な「経験の口伝」だと思うんです。
悪いのは、年長者から若年者を支配せんとするための「説教」。
あるいは、目的なくダラダラ喋り続ける、聞いてほしいだけの「説教」です。
「説教」は、言葉の通り「説いて教え」ること。
聞いてる側が苦痛に感じるような「説教」は、教え方がヘタってこと。
つまり、愛情のない説教は恥ずかしい、と僕は思うのです。

次に「昔話」。
「昔は良かった…」みたいな話は、たしかに聞いてて気持ちいいものではないかもしれません。
しかし、過去があってこそ、今があるわけですから、これも無駄なはずがない。
歴史を語るのは必要なことですが、僕はそこにこだわり続けるのがよくないんだと思います。
前はこうだった、うちではずっとこうしてきた。
そう言われたら、新しいことや、改善につながることも、受け入れる余地がなくなってしまいます。
まぁ、平たく言えば頑固者ってことですかね。

最後に「自慢話」。
これは、ホントにつまらないですね。
なに過去の栄光にしがみついてんだよ、と思う。
酒でも入ってたら、仕方ないかもしれんけど。
そもそも自慢話なんてのは、自分で語るものでもないし。
人から認められてこそ、だし。
そこにこだわっている時点で、器の小ささを露呈してしまっているようなものですから。
自慢したくもなるときは、誰にだってあるかもしれませんが。
とにかく、かっこ悪い。
年長者の場合は、特に見るに耐えない感じになります。

高田さんの言葉や態度から感じるのは、とにかくそんなつまらない“こだわり”を捨てること。
それをテキトー男として実践しているのだとしたら、こんなにカッコイイ大人も、なかなかいないんじゃないか、と思ったりいたします。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:40| Comment(0) | 日記

2018年05月05日

社会の寛容さと具体的な取り組みを。

最近、ある芸能人が起こした、アルコールと強制わいせつに関する話題がよく取り上げられます。
起きたことは、問題というより事件であり、その是非は言うまでもないことです。
ただ、ニュースを見ていて、ものすごく気になることがあるので、やや取り上げにくい話題ではあるのですが、私見を述べたいと思います。

まず、全体の印象として。
「メンバー」は、アルコール依存症なのだろうな、と感じます。
依存症には、嗜癖や薬物としてのアルコールの特徴、心理的要因や環境など、さまざまな側面がありますが。
彼の場合、嗜好を問題ある飲酒行動のレベルまで強めたのは、世間からの「見られ方」を、必要以上に求められ続ける立場にあったからではないか、というのが僕の見解です。

あの事務所の方には、時々こんな問題が見え隠れすることがあります。
僕は、その「見られ方」や「見せ方」へのこだわりが、とても大きな要因であるように感じるのです。

簡単に言えば、自分を表に出せない状況は、継続したストレスを抱えてしまう。
自分を解放できる対象に依存するようになる。
その対象として、手軽に手に入るお酒はうってつけ。

お酒が好きでも、「見られ方」が大事な仕事だから、居酒屋では気持ちよく飲めない。
泥酔したらスキャンダルで人生棒にふるもんね。
だから家飲み。
気がすむまで飲んだら、あとは寝るだけ。
止める人がいなければ、だんだんと量は増える。
普段はものすごくいい人なのに、お酒を飲むとリミッターが外れて、人が変わる。
自分では、酔っている時の自分の異常に気づけない。
そうやっていったんハマると、自力で抜け出すことは不可能。
彼の周りの人は気になってはいても、止められない、助けを求めることもできない。
ここでも「見られ方」が悪影響。
そして、事件につながった…。
…という感じではないかと思います。
僕の思い込みかもしれませんけどね。

依存症は、病気です。
公共の電波で、宣伝するようなものではそもそもありませんが、本人にとっては、受容がまずは大切となる、“否認の病”でもある。
「まさか自分がなるわけない」という否認が治療を遅らせ、回復を長引かせたり、重症化させたりするわけです。
こういうことは、認知症でも見られますが。
依存症には、特にそういったスティグマがありますよね。

社会的にも広く知られる存在である彼が。
後ろ指を指されながら、これから先の長い人生を生きていくには、どんな支えが必要になるだろう。
アルコールに頼らず、人の支えによって回復できるものなのだろうか。
そんなふうに思う。

つまり、「なぜ依存してしまうのか」の本質を解決しなくてはならないことと、回復を助ける“人の輪”が欠かせない、と僕は思うのです。

目を真っ赤に腫らして会見に臨み、衆人環視の中で誠実に語ろうとする「メンバー」の姿勢は、僕は立派だと思いました。
なのに、「戻る場所があるのなら…」という言葉を、仲間からはっきり否定されると、正直立っていられないし、立ち上がれないと思う。
大人としては正しい対応なのだと思いますけど、彼の回復を支えるような立場はとらないのだろうか、と少し疑問に思えました。

たぶん、男の友情みたいなものは、表に出すものじゃないし。
突き放す優しさ、あるいは厳しさが必要、ということも、あると思うのです。
テレビ向きのコメントも、必要でしょう。
彼らの仕事は、社会からの厳しい品定めを、たえず受け続ける仕事でもありますから。
画面に映らないところで、支えになっていかれるだろうと、僕は信じていますけどね。

さて、本題。

この問題を通じて僕が思うのは、社会全体の寛容さ、ということです。
彼が本当に依存症なのか、ということも、ここは切り離して考えます。

人間には色々な“顔”がある。
心理学的には、ペルソナ(仮面)と呼びますが。
「メンバー」の行動が大きなニュースになるのは、アイドルというペルソナに対する、社会からの期待や信託が、高すぎるために起きていることでもあります。
ペルソナは、あくまで仮面で、表層的な役割に過ぎないのに。

身近なところで例えるなら、医者や看護師、介護職だってペルソナな訳です。
本音をさらけ出して仕事するのではなくて、優しく受容的態度で接するという「仮面」をかぶって、僕らは社会からの要請に応えようとします。
なので、時々本能むき出しの看護師さんとかに出会うと、「こえ〜〜っ」と思ったりしますけどね(笑)。

で、アメリカの芸能人を例えに出すのも変ですが。
けっこうゴシップはヒドイし、めちゃくちゃやってますよね。
それなのに、仕事が良かったら、それなりに許されちゃう、みたいな風土がある。
あの国というのは、自由であり、競争が厳しくもあるけど、失敗に対しては本当に寛容だし、そこが羨ましいな、と思うところでもある。

だって、芸能人だって普通の人間なんですから。
心のバランスを崩すことだってあるだろうし、むしろ一般人より精神の安定を維持するのは、よほど大変なはず。
そこで、精神医学や心理学が発展し、社会としてもある程度それを受容する「懐の深さ」がある。
これ、精神障害とノーマライゼーションを考える上では、重要なことですよ。

翻って、我が国の場合。
なんだか器が小さいよね…。
規範を重んじるのが、日本人の良いところでもあるのは、確かだと思うんですが…。

で、この問題を社会的側面から見た場合。

あんまり厳しい「あり方」や「見られ方」ばかり求めるのは人権侵害だと、僕は思うんです。

本音をさらけ出して、テレビの前で泣いている人を、さらに叩くという神経が僕にはわからない。
酷い目にあった当事者が怒るのは当たり前だし、それでいいんです。
でも、今騒いでる人は、「そんな人だとは思わなかった」ってだけじゃないですかね。
関係ないやつは黙ってろ、と思う。
…あ、僕も無関係ですけどね。

で、その「あり方」や「見られ方」が、依存症の問題とも繋がってるし、引きこもりや精神を病む人の増加に繋がる。
社会のあり方の病理じゃないのか、というのが僕の本当に言いたいことなんです。

日本社会というのは、本当に“ちまちま”してる、と思う。
その「小ささ」が、偏見や差別の土台になるし。
障害者に対する意識の壁や偏見を生み出すものとも、根を等しくする。

だからこそ。
この問題を考察することで、社会の寛容さを問いたい。
そんな風に思いました。

あとは、何ができるか…なんだけど。
長くなったので、このへんで。
posted by メタマネ佐藤 at 08:19| Comment(0) | 日記

2018年04月27日

新人。

新しいことを始める人は、何歳だって新人だ。
ーー東京海上日動火災保険 ポスターより

春は、何か新しいことを始めるのに最適ですね。
さわやかな朝のような気持ちで、前向きに、いろいろなことに取り組みたいものです。

さて、この言葉で、私は昔勤めていた職場で出会った、一人の利用者様を思い出しました。

その方は、90代でしたが、何事にも前向きで、感性が若々しい素敵な女性でした。
デイ以外にもお友達が多くて、一家揃って音楽好きなこともあり、しょっちゅうコンサートに出かけたりしていました。

私が感銘を受けたのは、その方が「やったことのないこと」に挑戦することを、その年齢になっても楽しんでおられたことです。

たとえば、デイのアクトで、指編みのマフラー作りをしていた時。
「私はこういうことをしたことがなかったから、作り方を覚えて、孫にプレゼントしてやりたい」と言っていました。
作り方を覚えて、自宅でも手編みの糸をたくさん購入して、10人以上いる孫の人数分拵えたりしていましたね。

90代になっても新しいことに取り組んで、孫の誕生日に手編みのマフラーを届けるという目標を見つけて、誰からも慕われる。
僕はその方を、人間としてとても尊敬したことを覚えています。
「こうありたいな」と。

その方は、はにかみながら「90の手習いだ」と言っていました。
それから20年あまりが経ちます。

その方の優しい笑顔は、今でも僕に、初心を持つことの大切さを教えてくれています。
posted by メタマネ佐藤 at 12:47| Comment(0) | 日記

2018年04月22日

のぼせあがる。

「中年男性がのぼせ上がったということ」

女性問題で進退を問われた、新潟県知事の米山知事の言葉です。

なんというか、「悲しいニュースだなぁ」と思います。
ぼくも中年男性の一人としてかなぁ…。
のぼせ上がることだってあるよな、そりゃあ…。

まぁ、程度や内容に問題があったというのは明らかですが。
それにしても、女性問題で、あれだけのキャリアを棒にふる、なんてのは寂しすぎる。
「1日2日欲しい」ってのも、そりゃそうだよなって思うけど、世間の声はそんなに甘くなかったですね。

あぁ、これが中年の悲哀というものかなぁ…。

さて。

「のぼせ上がる」ことは、誰にでもあると思うんです。
ちやほやされるとつけあがるというか。
たいした実力もないのに、肩書きがあると勘違いするというか。

立場は人を作る、と言いますが。
本質的な力を身につけるには、それなりに時間も必要です。

自信を持つ、ということは生きていく上では重要です。
しかし、自分の実力を過信してはいけない。

それを“のぼせ上がり”と、人は言うのでしょう。

怖いのは、自分がどのくらいのぼせ上がっているのか、自分自身ではわからない、ということです。

評価というのは他人がするものだ、と私は常々思っておりますが。
たいてい、直撃で辛辣な評価を下す人というのは、そんなにはいないものです。
表面上は穏やかな笑顔でいても、内心では舌を出していることがあるかもしれない。
陰で悪く言われていることも、あるかもしれない。

しかし、そういう“負の評価”を怖がっていても、どうにもならないと、ある時期から思うようになりました。

これは「のぼせ上がる」ってのとは、少し違っていて。
他人が自分をどう思うかなんて、そもそも操作のできないものだから、自分は自分にできる精一杯のことをやって、あとはそれで仲良くできる人とだけ、仲良くしたらいいということ。
想いが届かないとしても、「通じない相手だった」と思えばいいだけです。
相容れないからといって、自分から戦闘を仕掛ける必要はない。
価値観の相違というやつで、全ての人とわかりあうことなど、そもそも不可能ですから。

言い方を変えると、他者に対して常に誠実でなくてはならない、ということ。
でも、それはとても難しい。
それができないのは、ある意味自分が「のぼせ上がっている」せいなのかもしれない、と思います。

他人はどう思うか知りませんが。
自分自身で、「のぼせ上がっていた」とテレビの前で表明できる、米山知事の発言は、立派だと思う。
まぁ、そもそも女性問題だから、内容は全然違うけど。

人は間違えます。
勘違いもします。

難しいのは、それを素直に認めるということ。
のぼせ上がっていると、それができないのです。

だからね。

のぼせる前に、夜風に当たって、頭を冷やすことにいたしましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 13:46| Comment(0) | 日記

2018年04月19日

だいぶ、しばらく。

前の更新から、だいぶ、しばらく間が空いてしまいました。
私のブログ更新を楽しみにしてくださっていた方、まことにもうしわけごさいませんでした。

ほんとうに、久しぶりの、約1ヶ月ぶりの更新です。

ブログを書くようになってから、あと半年で8年。
記事の数は1900本を超えていて、もうすぐ2000本に届こうとしておりますが。

…最近、なかなか書けない。

忙しいから、といえば、確かにそうなんですけども。
だいぶネタが尽きてきたな〜というのも正直なところで。

あとは、なんといってもモチベーションですね。

ブログを書き始めた頃というのは、フィードバックをもらうのも嬉しいし、新鮮だし。
書くという行為を通じて自らの考えをまとめたり、文章力を高めたりするトレーニングになる、という動機付けが、自分でもできていたのですが。

だんだん、書く内容や、書く言葉を選ばないといけないな、と思うようになったり。
フィードバックも、プラスの意見ばかりではなくなってきて。
内容もまぁ、自分でもマンネリ気味だな、と思うようになり。
毎日書くことにこだわる必要もないな、と感じたり。

別に、ブログを書くことに後ろ向きになったわけではないのだけど。
ソリッドなテーマにも踏み込めないし、「書く話題」がいよいよ無くなってきたな〜、という感じがするのです。
それが、だいたい2年前くらいからですかね。

自分の中で、優先順位が下がってくると、どうしても「忙しい」という事情や、「めんどくさい」といった心情に流されてしまいます。

そんなわけで、なんか、書くことから遠のいて。

忙しいことは、たしかに忙しかったのだけど。
こんなことじゃダメだな、と。

前にも書きましたが、私は2月から、社内異動で新しい環境で働かせて頂いています。
異動前は寂しさや戸惑いもありましたが、今は目にすることが新鮮で、楽しく働くことができています。

そんな時だからこそ。
しばらくは実務に専念すべきだ、という気持ちもあり。
しかし、自分で自分に課したことを、なんとなくで間を空けるというのは、本来の自分の性格からすれば、嫌なことでもあり。

で、気付けば1ヶ月あまり更新していなかった、という感じです。

まぁ、そんなわけで。

これからも時々、ぽつぽつと自分のペースで思うことを書いて行きますので。
ちょくちょく覗いていただけると嬉しいです。
posted by メタマネ佐藤 at 00:12| Comment(0) | 日記

2018年03月20日

負けてない組。

先日、こんなニュースを見ました。

いわゆるネットカフェ難民の実態に迫ったドキュメンタリー。
クローズアップされたのは、30代の男性。
彼は、職を転々としながら、ネットカフェに流れ着いて約2ヶ月が経過しているという。

所持金は3000円。
一日ネットカフェを利用するのに2400円。
それを支払うために、日払いのバイトを探して時々働いている。
その日に働ける仕事を探せば、大体20〜30件ほどの日雇いの仕事は見つかるという。
急にバイトが休みになったから、ヘルプで入って欲しい、みたいな感じで。

取材の日、5時間働いた対価は約5600円。
バイト先が飲食店のため、食事は支給される。
ネットカフェの支払いをして、余ったお金は酒とタバコとパチンコに消えていく。

その彼が、こう言ってました。
「このままじゃやばいな〜〜、という意識はある。
今はまだ若いから、こういう生活もできるんだ、と思っている。
自分は、勝ち組じゃなくても、負け組でもない。
自分は負けてない組なんだ」と。

この「負けてない組」という言葉が、とても印象に残りました。

テレビに映る彼は、身なりはふつうだし、その日入ってすぐに働けたりもするので、能力が低いわけではない。
ただ、一つの場所で我慢するという、根気が足りないのかな、という感じがしました。

この「負けてない」という感覚。
僕は、多くの人が共有できるのではないか、という気がします。
いわゆる、“負けず嫌い”というのがありますが。
それに近いものかもしれませんね。

負けを認めない。
間違いを認めない。
それでは成長できない気がします。

そして、こうも思う。
そもそも人生は勝ち負けではありませんよね。

お金があったり、家族関係が充実していたり、趣味を楽しむ余裕があるような人を、「勝ち組」のように言うかもしれませんが。
たとえ今は「勝ち組」に属しているとしても、それなりに難しいこと、悩ましいことはあるはず。
努力せず、ただ日々を無為に過ごす中で、宝くじに当たるように「勝ち組」のチケットをもらったわけではない、と僕は思うんです。

経験は蓄積されます。
それは口座の預金額と似たようなもので。
日々の積み重ねが大切なんです。

たとえば、その幸せの貯蓄が、勝ち組の定義なのだとしたら。
大切なことは以下の3つ。

自身の価値を高めるか。
責任を背負って対価を得るか。
支出を見直して抑えるか。

なんというか、「負けてない」というこだわりを持つ時点で、大切なものが欠落しているように思えます。
しかし、それは多分、特異な思考ではなく、誰しもが陥る自己弁護。

すなわち、「自分は悪くない」「自分は間違ってない」「自分は負けてない」。

大切なのは、負けないことではなくて。
自分と素直に向き合うことではないか、と思う。

大人になればなるほど、素直になることは難しく思えますけど。
いつも初心を忘れずに頑張りたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 23:20| Comment(0) | 日記

2018年03月13日

視覚障害と笑い。

コンプレックスをネタにする笑い、というのは以前からよくありました。

ブス、だったり。
デブ、だったり。
ハゲ、だったりね。

しかし、先日のR-1で優勝した濱田祐太郎さんは、そのどんなジャンルよりも強力な個性を武器にしていました。

なぜなら、彼は視覚障害者。
白杖を持って登場した彼は、目が見えない生活の中での「あるある」を、素晴らしい“話芸”の笑いに昇華していたのです。

これは、どんな芸人も敵わない、と思いましたね。
なにより、話術が明らかに優れていた。

僕はものすごくお笑いが好きですが。
それは、「笑い」という文化について、人を笑わせる、幸せな気持ちにさせる“力技”に、尊ささえ覚えるからなのです。

そんなお笑い大好きな私をもってして。
ここ数年のなかでも、濱田祐太郎さんの笑いは、群を抜いて素晴らしかった。

しかし、世間的には「障害」を笑いに変えるのは“いかがなものか”という意見があるようですね。
僕は、その発想こそが差別だと思っています。

なぜなら、目が見えないことは彼にとって日常であり、事実であり。
その中の“あるある”を紹介することは、障害者の世界や生活を知る意味でも重要です。
そもそも、他者がどうこう言うものではない。
目が悪かろうが、耳が悪かろうが、知的障害だろうが、デブだろうが、ハゲだろうが、ブスだろうが、それは同じなのです。
ただ、今までにそのジャンルの笑いがなかった、ということ。
これは相当な勇気がなくてはできないことです。

そして、自分の私的な体験を、話術で笑いに昇華しているのは、紛れもなく彼自身の笑いの技術であり、情熱がなくてはできないことなのです。
その意味で、彼は誠実に笑いを追い求めてきたはず。
だから私たちは、それを素直に楽しめば良い。

その意味において、目が見えないということは、ハンデではなく、強みであった。
さらに言えば、これは一つの笑いの鉱脈かもしれません。

「障害を笑いにするのは不謹慎」みたいなことを言う人もいますけど。
僕は、その発想が差別なんだ、ということを改めて言いたい。

最後に濱田さんの言葉を引用します。
「目の見えない部分を笑いにすると、笑いにくいのかなと思ったので、もっとボケの幅を広げていきたい」

それでこそ、芸人。
素晴らしい。


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posted by メタマネ佐藤 at 21:45| Comment(0) | 日記

2018年03月08日

両備バス廃線問題について。

最近、岡山県のあるニュースが話題を呼んでいます。
それは、両備バスが打ち出した、「赤字バス路線を31路線廃止する」という、前代未聞の措置。

「地域住民の足」を揺るがす、この大問題について、私はケアマネの立場から、少し私見を述べたいと思っています。

この問題の概要を簡単に。

かねてより、低価格均一運賃で岡山市内の既存事業者と競争関係にあった岡山市中心部の循環バス「めぐりん」。
両備グループの主要幹線である西大寺線と全く同等の路線営業を中国運輸局に申請し、それが認可される見通しとなった。
現在、西大寺と岡山駅を結ぶ両備バスの路線は、始点から終点まで運賃およそ400円。
対してめぐりんは、定額運賃250円で運行を予定している。

そもそも、この両備バス西大寺線は、もともと軽便鉄道と呼ばれる、鉄道路線の代替え手段だったもの。
国鉄赤穂線の開業に伴い、競合を避ける意味で、もともと子会社であった両備バスが路線開業に至ったものだそうです。

言うなれば、両備バスのアイデンティティとも言える、この西大寺線。
町の発展とともにあった、というよりむしろ町の発展を支えてきた、という自負のある「ドル箱路線」に、ポンと低価格事業者の新規参入。
だからこそ、怒りを抑えられなかったのでしょう。

そして、「全国の地域公共交通を守るために、敢えて問題提起として赤字路線廃止届を出しました」とする、両備グループ代表、小嶋光信氏のメッセージは以下のようなものです。

「現在、日本のバス事業者の8割は赤字、電気軌道事業所の7割以上が赤字の供給過剰の状況にあります。皆さんご存知のないことで驚かれるかと思いますが、両備バスは3割の黒字路線で7割の赤字路線を、岡電バスでは4割の黒字路線で6割の赤字路線を支えているのが現状です」
とあります。

赤字を抱えながらも、民間の努力によって継続されている赤字バス路線。
安易に採算が取れそうだからといって、過当競争を招く新規事業者の参入を許せば、赤字路線を維持する余裕が無くなる。
だから、問題提起として赤字路線の廃止を提起した、という。

こういう新規参入を、「クリームスキミング」というそうです。
端的に言えば、“美味しいとこ取り”ですね。
大手航空会社のドル箱航路に、LCCが参入するのと同じようなもの。

ここまでの話をまとめれば、「めぐりん」は明らかに悪者ですね。
儲かるからって、両備バスのバス停の真横に、わざわざめぐりんのバス停を建てるなんてのは、やり過ぎな気がします。
わざわざ供給が十分ある路線に参入するのではなく、「買い物」「通院」「役所」「学校」など、地域ごとの生活基盤に密着する場所を循環するような、まさに「めぐりん」の名前が示す通りのコンパクトな路線展開こそが、社会的要請であろうと考えますから。
つまり、既定路線に入り込むのではなく、地域を循環する路線図が敷かれていない地域は、岡山市内にもまだまだたくさんあるじゃないか、と僕は思うわけです。

ただ。
バスを利用者する、住民の立場としてみれば。
安くバスに乗れた方が良いに決まっている。
そして、行政の立場として、本当に“安易”に新規参入を許したのか、というところに、私はこの問題の本質があるような気がしています。

さて、ここで少し視点を俯瞰して。
僕が疑問に思う、二つのポイントについて述べたい。

まずひとつは、どうして路線バスのサイズは一定なのか、ということ。
もうひとつは、両備タクシーはなぜ介護事業から撤退したのか、ということ。

1点目は、バス会社の人に聞かないとわかりませんが。
2点目は、ケアマネとして、いろいろ思うところがあるのです。
その当時、介護タクシーについては、制度の定めとの齟齬があり、問題が指摘されていましたからね。

そんな中。
地域で最大規模のタクシー事業者である同社が、介護事業から撤退した。
移動弱者である要介護者に与えた影響は、とても大きかったことは、言うまでもありません。

その時の背景にあった問題と、今回の廃線にまつわる問題は、根を等しくする問題であるように僕には感じられます。
憶測で述べるのが良いかどうか、ということもあるので、これ以上は申しませんがね。

さて、ここからが、今回の問題に対する私個人の意見です。

まず、両備バスさんのこの度の対応について思うこと。

…特設サイトを設けて、企業努力をアピールするのなら、違う方向に努力して頂きたい。
沿線住民を人質に取るかのような、オールオアナッシングの手段ではなくて、赤字路線から撤退を表明する以上は、住民を不安に陥れないように、きちんと代替え案を提示してもらいたい。
それでこそ、公共交通を支えてきたと自負される、両備バスの社会的責任ではないでしょうか。

代替え案を提示しないのは、この行動そのものを、行政との交渉材料としているからではありませんか?
これは行政に対しての脅しであり、廃線予定の沿線に住む住民は、一企業の賃上げ交渉の人質にされた、と言っても過言では無いわけです。

そして、市民として申し上げるならば。
行政当局は、このような脅しに屈せず、それに変わる代替えの交通手段を、いち早く構築してもらいたい。
このような手段をとる会社に、大切な家族は預けられない。
そう思わずにはいられません。

マクロに見れば、自家用車保有率の向上であるとか、沿線の過疎高齢化であるとか、様々な課題が公共交通にはありました。
狭く細い既得権の奪い合いが根底にあるのだろう、という仮説も、容易に想像できる訳ですが。
そのような中で、めぐりんの新規参入という議論が進んでいるのだろう、と思うのです。

いずれにしても。
どのようにして、住民の“足”を守るのか。

そこが肝要なポイントと言えるでしょうね。
posted by メタマネ佐藤 at 22:10| Comment(1) | 日記

2018年03月03日

協調性。

協調性とは、異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら、同じ目標に向かって任務を遂行する素質。
ーWikipediaより抜粋

かなり昔になりますが、テレビか何かでこんなアンケートをやってました。
「ツアーコンダクターの人、100人に聞きました。
引率する時に、やりにくいのはどんな人達ですか?」

このトップ3は「教師」「医師」「社長」でした。
この結果、「なるほどなぁ」と思った人も多いのではないでしょうか。

実はこの三者、対人サービスや接客業では「やりづらい」と言われてしまう、代表格なんですよね。
しかし不思議なのは、それぞれ高い知性が求められる仕事であり、コミュニケーション能力も重要であるはずなのに、どうして「やりづらい」と思われてしまうのでしょうか。

これには、主に3つの側面があると思っていて。
ひとつは接客や応対をする側が、プレッシャーを感じてしまう、ということと。
ふたつめは、コミュニケーション能力や知性が高いために、ごまかしが通じないということ。
もうひとつは、本人が無意識に威圧的になっていたり、独善的に偏ったりする可能性があるということ。
この最後の一つが大きなところで、平たく言えば「協調性」の問題ですね。

これは、以前から思っていることなのですが。
協調性というのは、その仕事の性質によって大きく変わってくると思います。

さきほどの3つの職種に共通する特徴は、「自分で結論を出さないといけない」「職務への責任が重い」「人に指示や教育を与えなくてはならない」といったものがあります。

教師と医師について言えば、教育課程を終えたばかりで、すぐ「先生」と呼ばれる立場になり、狭い世界で生きることになる。
そのために、世間との一般常識とのズレが生じる、という見方もあります。
この“ズレ”は、教師と医師に限られたものではなく、“狭い業界”に対してよく言われるところでもありますけどね。

さて、この3つの職種。
強い自我を持たなくては務まらない仕事、とも言えますね。

周りに合わせて、流されるばかりではダメだし。
他者の顔色を窺っているようでは、責任ある決断はできないでしょうし。

つまり、こういう職責を長年背負っていると、協調性が低下してしまうのかもしれないなぁ、と思ったりするのです。
あとは、相対的に立場が“偉い”ことがほとんどなので、周囲の人が「おかしいな」と思っても指摘しづらい、ということもあるのだと思います。
もちろん、立場に関係なく、フラットな関係を作れる人もいますけど、個人差はものすごく大きいですよね。

で、私が本当に切実な問題だなあ、と思っているのは。
この協調性の問題が、ケアマネに対しても当てはまる、ということです。

当たり前ですけど、チームで何かを成そうとする時に、協調性の有無は非常に大きな問題となってきます。
これからは地域に対する働きかけも重要ですし、今みたいな限定的な仕事ぶりで、本当にやっていけるのかなぁ、と不安に感じたりもします。

…もっと言うならば。

ケアマネさんには知識よりも協調性が大事だと思うのです。

ふつうに仕事して、みんなと仲良くしていたら、自然と協力者が集まってくるような。
そうでなければ、本来の仕事は務まらない、と思います。

そして、そういう資質みたいなものは、指導では身につきません。
大切なのは、態度と心がけでしょう。

先日、とある医師の方より、「医師とケアマネの連携の難しさは、どちらがイニシアチブを握るのか、という難しさではないか」と言われました。
私は、この指摘は本質を突いている、と思いましたね。

たとえば、訪問看護の依頼をするとき。

ケアマネさんには頼みたい事業者や、看てもらいたい理由が必ずある。
それは医師の側も同じで、指示を出したい事業者や、出すべき理由が必ずある。
そういう中で、藪から棒に「指示書を書いてくれ」とだけケアマネに頼まれると、「君は医者なのか」と言いたくなる。
ケアマネからすれば、気難しい先生が相手だと思うと、会いにいくのも躊躇してしまう。

そうして、訪問看護が必要な人に対する支援が、なかなか届かない。
これは、かなりよくある話ではないかと思うのです。

巷間では、「ケアマネの医療的管理に対するアセスメントが不十分」という課題がよく議上に登ります。
それは確かにそうなのですが、日頃から気軽に相談できる関係性があれば、実は医療ニーズが拾いにくい、力が足りなくて拾えないとしても、適切な支援は届けられる可能性がある。

専門分野は、それぞれの専門家に委ねれば良い。
それだけの事だと思います。
それが、人間関係の不調和によって利用者に届かないとすれば、これはかなり由々しき問題。

ケアマネの仕事の本質は、チーム形成にあります。
だからこそ、協調性というのは、ケアマネとして一番大切な資質なのかもしれない、と思ったりもするのです。
posted by メタマネ佐藤 at 06:42| Comment(0) | 日記