2018年04月19日

だいぶ、しばらく。

前の更新から、だいぶ、しばらく間が空いてしまいました。
私のブログ更新を楽しみにしてくださっていた方、まことにもうしわけごさいませんでした。

ほんとうに、久しぶりの、約1ヶ月ぶりの更新です。

ブログを書くようになってから、あと半年で8年。
記事の数は1900本を超えていて、もうすぐ2000本に届こうとしておりますが。

…最近、なかなか書けない。

忙しいから、といえば、確かにそうなんですけども。
だいぶネタが尽きてきたな〜というのも正直なところで。

あとは、なんといってもモチベーションですね。

ブログを書き始めた頃というのは、フィードバックをもらうのも嬉しいし、新鮮だし。
書くという行為を通じて自らの考えをまとめたり、文章力を高めたりするトレーニングになる、という動機付けが、自分でもできていたのですが。

だんだん、書く内容や、書く言葉を選ばないといけないな、と思うようになったり。
フィードバックも、プラスの意見ばかりではなくなってきて。
内容もまぁ、自分でもマンネリ気味だな、と思うようになり。
毎日書くことにこだわる必要もないな、と感じたり。

別に、ブログを書くことに後ろ向きになったわけではないのだけど。
ソリッドなテーマにも踏み込めないし、「書く話題」がいよいよ無くなってきたな〜、という感じがするのです。
それが、だいたい2年前くらいからですかね。

自分の中で、優先順位が下がってくると、どうしても「忙しい」という事情や、「めんどくさい」といった心情に流されてしまいます。

そんなわけで、なんか、書くことから遠のいて。

忙しいことは、たしかに忙しかったのだけど。
こんなことじゃダメだな、と。

前にも書きましたが、私は2月から、社内異動で新しい環境で働かせて頂いています。
異動前は寂しさや戸惑いもありましたが、今は目にすることが新鮮で、楽しく働くことができています。

そんな時だからこそ。
しばらくは実務に専念すべきだ、という気持ちもあり。
しかし、自分で自分に課したことを、なんとなくで間を空けるというのは、本来の自分の性格からすれば、嫌なことでもあり。

で、気付けば1ヶ月あまり更新していなかった、という感じです。

まぁ、そんなわけで。

これからも時々、ぽつぽつと自分のペースで思うことを書いて行きますので。
ちょくちょく覗いていただけると嬉しいです。
posted by メタマネ佐藤 at 00:12| Comment(0) | 日記

2018年03月20日

負けてない組。

先日、こんなニュースを見ました。

いわゆるネットカフェ難民の実態に迫ったドキュメンタリー。
クローズアップされたのは、30代の男性。
彼は、職を転々としながら、ネットカフェに流れ着いて約2ヶ月が経過しているという。

所持金は3000円。
一日ネットカフェを利用するのに2400円。
それを支払うために、日払いのバイトを探して時々働いている。
その日に働ける仕事を探せば、大体20〜30件ほどの日雇いの仕事は見つかるという。
急にバイトが休みになったから、ヘルプで入って欲しい、みたいな感じで。

取材の日、5時間働いた対価は約5600円。
バイト先が飲食店のため、食事は支給される。
ネットカフェの支払いをして、余ったお金は酒とタバコとパチンコに消えていく。

その彼が、こう言ってました。
「このままじゃやばいな〜〜、という意識はある。
今はまだ若いから、こういう生活もできるんだ、と思っている。
自分は、勝ち組じゃなくても、負け組でもない。
自分は負けてない組なんだ」と。

この「負けてない組」という言葉が、とても印象に残りました。

テレビに映る彼は、身なりはふつうだし、その日入ってすぐに働けたりもするので、能力が低いわけではない。
ただ、一つの場所で我慢するという、根気が足りないのかな、という感じがしました。

この「負けてない」という感覚。
僕は、多くの人が共有できるのではないか、という気がします。
いわゆる、“負けず嫌い”というのがありますが。
それに近いものかもしれませんね。

負けを認めない。
間違いを認めない。
それでは成長できない気がします。

そして、こうも思う。
そもそも人生は勝ち負けではありませんよね。

お金があったり、家族関係が充実していたり、趣味を楽しむ余裕があるような人を、「勝ち組」のように言うかもしれませんが。
たとえ今は「勝ち組」に属しているとしても、それなりに難しいこと、悩ましいことはあるはず。
努力せず、ただ日々を無為に過ごす中で、宝くじに当たるように「勝ち組」のチケットをもらったわけではない、と僕は思うんです。

経験は蓄積されます。
それは口座の預金額と似たようなもので。
日々の積み重ねが大切なんです。

たとえば、その幸せの貯蓄が、勝ち組の定義なのだとしたら。
大切なことは以下の3つ。

自身の価値を高めるか。
責任を背負って対価を得るか。
支出を見直して抑えるか。

なんというか、「負けてない」というこだわりを持つ時点で、大切なものが欠落しているように思えます。
しかし、それは多分、特異な思考ではなく、誰しもが陥る自己弁護。

すなわち、「自分は悪くない」「自分は間違ってない」「自分は負けてない」。

大切なのは、負けないことではなくて。
自分と素直に向き合うことではないか、と思う。

大人になればなるほど、素直になることは難しく思えますけど。
いつも初心を忘れずに頑張りたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 23:20| Comment(0) | 日記

2018年03月13日

視覚障害と笑い。

コンプレックスをネタにする笑い、というのは以前からよくありました。

ブス、だったり。
デブ、だったり。
ハゲ、だったりね。

しかし、先日のR-1で優勝した濱田祐太郎さんは、そのどんなジャンルよりも強力な個性を武器にしていました。

なぜなら、彼は視覚障害者。
白杖を持って登場した彼は、目が見えない生活の中での「あるある」を、素晴らしい“話芸”の笑いに昇華していたのです。

これは、どんな芸人も敵わない、と思いましたね。
なにより、話術が明らかに優れていた。

僕はものすごくお笑いが好きですが。
それは、「笑い」という文化について、人を笑わせる、幸せな気持ちにさせる“力技”に、尊ささえ覚えるからなのです。

そんなお笑い大好きな私をもってして。
ここ数年のなかでも、濱田祐太郎さんの笑いは、群を抜いて素晴らしかった。

しかし、世間的には「障害」を笑いに変えるのは“いかがなものか”という意見があるようですね。
僕は、その発想こそが差別だと思っています。

なぜなら、目が見えないことは彼にとって日常であり、事実であり。
その中の“あるある”を紹介することは、障害者の世界や生活を知る意味でも重要です。
そもそも、他者がどうこう言うものではない。
目が悪かろうが、耳が悪かろうが、知的障害だろうが、デブだろうが、ハゲだろうが、ブスだろうが、それは同じなのです。
ただ、今までにそのジャンルの笑いがなかった、ということ。
これは相当な勇気がなくてはできないことです。

そして、自分の私的な体験を、話術で笑いに昇華しているのは、紛れもなく彼自身の笑いの技術であり、情熱がなくてはできないことなのです。
その意味で、彼は誠実に笑いを追い求めてきたはず。
だから私たちは、それを素直に楽しめば良い。

その意味において、目が見えないということは、ハンデではなく、強みであった。
さらに言えば、これは一つの笑いの鉱脈かもしれません。

「障害を笑いにするのは不謹慎」みたいなことを言う人もいますけど。
僕は、その発想が差別なんだ、ということを改めて言いたい。

最後に濱田さんの言葉を引用します。
「目の見えない部分を笑いにすると、笑いにくいのかなと思ったので、もっとボケの幅を広げていきたい」

それでこそ、芸人。
素晴らしい。


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posted by メタマネ佐藤 at 21:45| Comment(0) | 日記

2018年03月08日

両備バス廃線問題について。

最近、岡山県のあるニュースが話題を呼んでいます。
それは、両備バスが打ち出した、「赤字バス路線を31路線廃止する」という、前代未聞の措置。

「地域住民の足」を揺るがす、この大問題について、私はケアマネの立場から、少し私見を述べたいと思っています。

この問題の概要を簡単に。

かねてより、低価格均一運賃で岡山市内の既存事業者と競争関係にあった岡山市中心部の循環バス「めぐりん」。
両備グループの主要幹線である西大寺線と全く同等の路線営業を中国運輸局に申請し、それが認可される見通しとなった。
現在、西大寺と岡山駅を結ぶ両備バスの路線は、始点から終点まで運賃およそ400円。
対してめぐりんは、定額運賃250円で運行を予定している。

そもそも、この両備バス西大寺線は、もともと軽便鉄道と呼ばれる、鉄道路線の代替え手段だったもの。
国鉄赤穂線の開業に伴い、競合を避ける意味で、もともと子会社であった両備バスが路線開業に至ったものだそうです。

言うなれば、両備バスのアイデンティティとも言える、この西大寺線。
町の発展とともにあった、というよりむしろ町の発展を支えてきた、という自負のある「ドル箱路線」に、ポンと低価格事業者の新規参入。
だからこそ、怒りを抑えられなかったのでしょう。

そして、「全国の地域公共交通を守るために、敢えて問題提起として赤字路線廃止届を出しました」とする、両備グループ代表、小嶋光信氏のメッセージは以下のようなものです。

「現在、日本のバス事業者の8割は赤字、電気軌道事業所の7割以上が赤字の供給過剰の状況にあります。皆さんご存知のないことで驚かれるかと思いますが、両備バスは3割の黒字路線で7割の赤字路線を、岡電バスでは4割の黒字路線で6割の赤字路線を支えているのが現状です」
とあります。

赤字を抱えながらも、民間の努力によって継続されている赤字バス路線。
安易に採算が取れそうだからといって、過当競争を招く新規事業者の参入を許せば、赤字路線を維持する余裕が無くなる。
だから、問題提起として赤字路線の廃止を提起した、という。

こういう新規参入を、「クリームスキミング」というそうです。
端的に言えば、“美味しいとこ取り”ですね。
大手航空会社のドル箱航路に、LCCが参入するのと同じようなもの。

ここまでの話をまとめれば、「めぐりん」は明らかに悪者ですね。
儲かるからって、両備バスのバス停の真横に、わざわざめぐりんのバス停を建てるなんてのは、やり過ぎな気がします。
わざわざ供給が十分ある路線に参入するのではなく、「買い物」「通院」「役所」「学校」など、地域ごとの生活基盤に密着する場所を循環するような、まさに「めぐりん」の名前が示す通りのコンパクトな路線展開こそが、社会的要請であろうと考えますから。
つまり、既定路線に入り込むのではなく、地域を循環する路線図が敷かれていない地域は、岡山市内にもまだまだたくさんあるじゃないか、と僕は思うわけです。

ただ。
バスを利用者する、住民の立場としてみれば。
安くバスに乗れた方が良いに決まっている。
そして、行政の立場として、本当に“安易”に新規参入を許したのか、というところに、私はこの問題の本質があるような気がしています。

さて、ここで少し視点を俯瞰して。
僕が疑問に思う、二つのポイントについて述べたい。

まずひとつは、どうして路線バスのサイズは一定なのか、ということ。
もうひとつは、両備タクシーはなぜ介護事業から撤退したのか、ということ。

1点目は、バス会社の人に聞かないとわかりませんが。
2点目は、ケアマネとして、いろいろ思うところがあるのです。
その当時、介護タクシーについては、制度の定めとの齟齬があり、問題が指摘されていましたからね。

そんな中。
地域で最大規模のタクシー事業者である同社が、介護事業から撤退した。
移動弱者である要介護者に与えた影響は、とても大きかったことは、言うまでもありません。

その時の背景にあった問題と、今回の廃線にまつわる問題は、根を等しくする問題であるように僕には感じられます。
憶測で述べるのが良いかどうか、ということもあるので、これ以上は申しませんがね。

さて、ここからが、今回の問題に対する私個人の意見です。

まず、両備バスさんのこの度の対応について思うこと。

…特設サイトを設けて、企業努力をアピールするのなら、違う方向に努力して頂きたい。
沿線住民を人質に取るかのような、オールオアナッシングの手段ではなくて、赤字路線から撤退を表明する以上は、住民を不安に陥れないように、きちんと代替え案を提示してもらいたい。
それでこそ、公共交通を支えてきたと自負される、両備バスの社会的責任ではないでしょうか。

代替え案を提示しないのは、この行動そのものを、行政との交渉材料としているからではありませんか?
これは行政に対しての脅しであり、廃線予定の沿線に住む住民は、一企業の賃上げ交渉の人質にされた、と言っても過言では無いわけです。

そして、市民として申し上げるならば。
行政当局は、このような脅しに屈せず、それに変わる代替えの交通手段を、いち早く構築してもらいたい。
このような手段をとる会社に、大切な家族は預けられない。
そう思わずにはいられません。

マクロに見れば、自家用車保有率の向上であるとか、沿線の過疎高齢化であるとか、様々な課題が公共交通にはありました。
狭く細い既得権の奪い合いが根底にあるのだろう、という仮説も、容易に想像できる訳ですが。
そのような中で、めぐりんの新規参入という議論が進んでいるのだろう、と思うのです。

いずれにしても。
どのようにして、住民の“足”を守るのか。

そこが肝要なポイントと言えるでしょうね。
posted by メタマネ佐藤 at 22:10| Comment(0) | 日記

2018年03月03日

協調性。

協調性とは、異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら、同じ目標に向かって任務を遂行する素質。
ーWikipediaより抜粋

かなり昔になりますが、テレビか何かでこんなアンケートをやってました。
「ツアーコンダクターの人、100人に聞きました。
引率する時に、やりにくいのはどんな人達ですか?」

このトップ3は「教師」「医師」「社長」でした。
この結果、「なるほどなぁ」と思った人も多いのではないでしょうか。

実はこの三者、対人サービスや接客業では「やりづらい」と言われてしまう、代表格なんですよね。
しかし不思議なのは、それぞれ高い知性が求められる仕事であり、コミュニケーション能力も重要であるはずなのに、どうして「やりづらい」と思われてしまうのでしょうか。

これには、主に3つの側面があると思っていて。
ひとつは接客や応対をする側が、プレッシャーを感じてしまう、ということと。
ふたつめは、コミュニケーション能力や知性が高いために、ごまかしが通じないということ。
もうひとつは、本人が無意識に威圧的になっていたり、独善的に偏ったりする可能性があるということ。
この最後の一つが大きなところで、平たく言えば「協調性」の問題ですね。

これは、以前から思っていることなのですが。
協調性というのは、その仕事の性質によって大きく変わってくると思います。

さきほどの3つの職種に共通する特徴は、「自分で結論を出さないといけない」「職務への責任が重い」「人に指示や教育を与えなくてはならない」といったものがあります。

教師と医師について言えば、教育課程を終えたばかりで、すぐ「先生」と呼ばれる立場になり、狭い世界で生きることになる。
そのために、世間との一般常識とのズレが生じる、という見方もあります。
この“ズレ”は、教師と医師に限られたものではなく、“狭い業界”に対してよく言われるところでもありますけどね。

さて、この3つの職種。
強い自我を持たなくては務まらない仕事、とも言えますね。

周りに合わせて、流されるばかりではダメだし。
他者の顔色を窺っているようでは、責任ある決断はできないでしょうし。

つまり、こういう職責を長年背負っていると、協調性が低下してしまうのかもしれないなぁ、と思ったりするのです。
あとは、相対的に立場が“偉い”ことがほとんどなので、周囲の人が「おかしいな」と思っても指摘しづらい、ということもあるのだと思います。
もちろん、立場に関係なく、フラットな関係を作れる人もいますけど、個人差はものすごく大きいですよね。

で、私が本当に切実な問題だなあ、と思っているのは。
この協調性の問題が、ケアマネに対しても当てはまる、ということです。

当たり前ですけど、チームで何かを成そうとする時に、協調性の有無は非常に大きな問題となってきます。
これからは地域に対する働きかけも重要ですし、今みたいな限定的な仕事ぶりで、本当にやっていけるのかなぁ、と不安に感じたりもします。

…もっと言うならば。

ケアマネさんには知識よりも協調性が大事だと思うのです。

ふつうに仕事して、みんなと仲良くしていたら、自然と協力者が集まってくるような。
そうでなければ、本来の仕事は務まらない、と思います。

そして、そういう資質みたいなものは、指導では身につきません。
大切なのは、態度と心がけでしょう。

先日、とある医師の方より、「医師とケアマネの連携の難しさは、どちらがイニシアチブを握るのか、という難しさではないか」と言われました。
私は、この指摘は本質を突いている、と思いましたね。

たとえば、訪問看護の依頼をするとき。

ケアマネさんには頼みたい事業者や、看てもらいたい理由が必ずある。
それは医師の側も同じで、指示を出したい事業者や、出すべき理由が必ずある。
そういう中で、藪から棒に「指示書を書いてくれ」とだけケアマネに頼まれると、「君は医者なのか」と言いたくなる。
ケアマネからすれば、気難しい先生が相手だと思うと、会いにいくのも躊躇してしまう。

そうして、訪問看護が必要な人に対する支援が、なかなか届かない。
これは、かなりよくある話ではないかと思うのです。

巷間では、「ケアマネの医療的管理に対するアセスメントが不十分」という課題がよく議上に登ります。
それは確かにそうなのですが、日頃から気軽に相談できる関係性があれば、実は医療ニーズが拾いにくい、力が足りなくて拾えないとしても、適切な支援は届けられる可能性がある。

専門分野は、それぞれの専門家に委ねれば良い。
それだけの事だと思います。
それが、人間関係の不調和によって利用者に届かないとすれば、これはかなり由々しき問題。

ケアマネの仕事の本質は、チーム形成にあります。
だからこそ、協調性というのは、ケアマネとして一番大切な資質なのかもしれない、と思ったりもするのです。
posted by メタマネ佐藤 at 06:42| Comment(0) | 日記

2018年02月24日

落語と長屋。

古典落語に、「孝行糖」という演目があります。
そのあらすじを簡単に。

与太郎という愚かな若者(知的障害と言ってもいいくらいかな)が、親孝行をして、お奉行様から報奨金を頂いた。
与太郎が暮らす長屋の大家さんが、このお金を遊びなんかで使ってはいけないので、それを元手に商売かなにかを考えて、手に職を持たせ、与太郎の食い扶持が稼げるようにしてやろう、と考えた。
そして長屋の者が集まって、親孝行で得た元手だから、「孝行糖」という名前を付けて、飴を売らせたら良いのではないか…という話です。

この話で、与太郎に職を持たそうと動いたのが「五人組」。
隣近所で助け合うことを、幕府が定めた互助組織です。

これ、なんだか地域包括ケアシステムの話と似てると思いませんか?

孝行糖のお話ができたのは、明治時代とされています。
その頃のおおらかな風土と、互助の精神が根付いていたことを実感させられます。

なぜなら、与太郎に職を持たそうと努力したのは、与太郎の身内ではなく、プロでもなく。
彼の住む長屋の大家さんと、住人たちだったわけですから。
現在、コーポの大家さんや他の住人に、同じことができるか?と考えると、こうした笑い話が生まれる背景というのも、実に興味深いものと思うのです。

この「長屋」。
落語の舞台にはよく登場しますね。

ここで暮らす、貧乏ながらも底抜けに明るく、ちょっととぼけた面々というのは、なかなか現代社会ではお目にかかりません。
その助け合いの人情であったり、馬鹿馬鹿しさであったり、ちょっとウィットに富んだ話であったり。
そういうものを、演者の話術で“噺”に仕立てる。

そこにあるのは、「同じ場所で暮らす」からこその「ご縁」を大切にする、という価値観。
隣近所が困っていたら、当然に助け合う、という日本人らしい価値観なのだと思います。

古き良き時代、とよく言いますが。
それでも、今よりずっと不便な時代であったことは、間違い無いわけで。
それなのに、現代社会を“生きにくく”感じてしまう。

そういう時に、落語に出てくる長屋の面々に、心癒される気がするのです。
今の時代こそ、長屋は必要なものかもしれませんね。
posted by メタマネ佐藤 at 19:57| Comment(0) | 日記

2018年02月19日

運転免許の更新にて。

先日、運転免許の更新に行って来ました。
2、3年前になりますが、進入禁止で捕まっちゃって、腑甲斐なくも違反運転者講習を受ける羽目に。

最寄りの警察署じゃなくて、御津の免許センターで2時間の違反運転者講習を受けないといけないってことで、正直「だるいな〜」と思いながら、講習に入ったのですが。
担当する教員の方の、軽妙な語り口に、思わず魅了されてしまいました。

とにかく、講師の話が上手い。
軽くリラックスした調子で、5秒から10秒感覚に言葉を切りながら、聴き手側が内容を整理できるような話し方をされている。
内容も、きちんと“聞かせないといけない”ものですから、話す側に高いスキルが求められる。

この話し方やテンポは、長年の経験によるものと、「人に向けて話す」ということを研究されてきた成果なのだろうな、と感じながら、むしろそっちのノウハウを吸収したいな、と思いましたね。

おそらく、僕のように違反で捕まって講習に来てる人は、ほとんどが「だるいな〜」って感じだと思います。
そういう人を相手に、免許制度だけでなく、道路事情の課題とか、道路交通法の改正事項などを、いかに飽きさせず、興味を持って聞いてもらうか。
これは、あらゆる「人前で話す仕事」の中でも、本当に難しい領域だと思います。

毎日同じように話をされているからこそ練り上げられる話術、ということもあろうとは思うのですが。
それにしても、話をするまでに、相当言い方の工夫をしておられるのがわかりました。

自分も人前でお話することが多い立場ですから、聴く人に伝えたい気持ちというのは沢山あります。

なんにしても、聴く人の立場を考えて喋るということ。
これができないと、なかなか聴き手側の満足というものは得られないものです。

どうせ同じ時間を浪費するのであれば、意味のある時間の使い方をしてもらわないといけない。
そう思えばこそ、講義の内容をどう伝えるか、というところに立って、内容の研鑽に努めることができるものではないか、と思います。

もちろん、違反なんて、しないに越したことは無いんですが。
いろんなところに勉強の機会はあるものだなあ、と改めて考えさせられました。


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posted by メタマネ佐藤 at 06:27| Comment(0) | 日記

2018年02月14日

思う通りにいかないもの。

神様も、私の小説と同じように、この世界を拵えて行くうちに、世界それ自身が勝手に発展して思う通りに行かなかったのかもしれない。
ー芥川龍之介「ひとつの作が出来上がるまで」より抜粋

言わずと知れた文豪、芥川龍之介。
その人をもってして、自身が描く世界について、「世界それ自身が勝手に発展して思う通りにいかない」ということに、新鮮な気持ちになりました。

ある意味、作家の仕事は、神様のようなものかもしれません。
架空の世界を作り、架空の人物を登場させ、架空の物語を紡ぎ、それを世に知らしめることが仕事だからです。
歴史的事実をモデルにしていたとしても、細かな部分になると、そこは作家に委ねられるわけですから。

つまり。
それほど、世の中というのは思い通りにいかないものだ、ということでしょう。
作家でさえ、自分の作った世界を、思い通りに操ることができないわけですから。

そうなるのはなぜなのか。

それは、皆がそれぞれに人格と思惑をもち。
必ずしも、一定の方向に進んでいるわけでもなく。
状況も、刻一刻と変わっているからだろうと思うのです。
自分自身の能力も、限界がありますしね。

そのように考えると。
そもそもこの世は、うまくいかないようにできている、とも言える。
自分の思い通りにはいかないようにできている、の方が正しいかもしれませんね。

ですから、物事はうまくいかなくて当たり前なんだと思います。
大切なのは、“うまくいかないこと”に対する向き合い方。
壁に直面した時に、それから逃げるのか、向き合うのかの違いです。

真正面からぶつかって、立ち向かうのが難しい時もある。
そんな時は、壁の前で待ってみてもいい。
その壁を見つめて、乗り越え方をよく考えてみるといい。
あるいは、自分自身を見つめなおす、良い機会として捉えるべきだろうと思うのです。

目を背けては、その壁を越えることは、できなくなってしまうのですから。
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2018年02月11日

見方が変わる。

人間関係と言うのは、とても難しいものだなぁと思います。

このところ、そのような変化を、私自身が感じる機会がありました。
転勤によって環境が変わり、自分自身の人を見る目や、人間関係に影響を与えているのだと思います。

自分では、「人を見る目はたしかな方だ」と思ってきました。
ケアマネですしね、そういったアセスメント(人を見る目)に自信が持てなければ、務まらない仕事だろうとも思います。
そんな私自身が、改めて「自分自身が偏った見方に陥っていたことに気付かされた」。

僕は、「人というのは、本当にわからないものだな」と思うのと同時に。
その実感はむしろ、今後の人間関係を構築する上で、プラスに転換できると考えてます。

簡単に言うと、ものすごく嫌な人だと思っても、見方を少し変えるだけで、良い人にもなり得る。
悪い意味で言えば、信頼など一瞬で崩れ去るものだ、ということです。
少し視点を視点を変えるだけでも、そういった変化は起きる。

だからこそ、いつも誠実でなきゃいけません。

言葉で言えば、単純なこと。
だけど、実際に、私自身が今感じたのは、改めて難しさに気づいた、ということであり。

それは自分が未熟であることの自覚を与えてくれたのです。
勘違いに気付かされた、と言ってもいいかもしれません。

難しいと思うことも、いろいろありますが。

44歳を迎えた今日、気持ちを新たにして、頑張りたいと思います。


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posted by メタマネ佐藤 at 08:46| Comment(0) | 日記

2018年02月03日

思いやりと正義。

議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。
しかし、それは空しい勝利だ。
相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから。
ーーベンジャミン・フランクリン

アメリカ建国の父の一人と言われ、政治家でありながら科学者でもあったフランクリン。
いわゆる“避雷針”は、彼の発明によるものですが、その実験方法は雷の日に凧揚げをして、落雷の電気を逃す、という、一見自殺行為かとも思えるような方法で行われたとされます。
その勇気と行動力は、広くアメリカ国民からも支持され、現在の100ドル紙幣の肖像画にもなっている。
そんなフランクリンの残した名言の一つが、先ほどの言葉です。

さて。

イギリスからの独立という、あまりに大きな政治的偉業を成し遂げたフランクリンですが。
交渉のスペシャリストであった彼をして、「相手を言い負かしても空しい」というのが、私はとても重要な姿勢であると思うのです。

一方では、仏教にはこんな言葉もあります。

「正義は人間を最も残酷にさせる」

つまり、自分は正しいという思い込みこそが、他者への配慮を失わせ、容赦なく傷つけるようになる、という意味です。

価値観や物の捉え方は、一人ひとり皆違います。
自分は絶対に正しいと信じて疑わない、言い換えれば共感力の低い人間は、議論で相手を負かして、その事実をもって優越感に浸り、「自分は正しい」と自己陶酔していくものではないかと思います。
でもその背景にあるのは、自分に自信がない、人に認めてもらわないと価値がない、という承認欲求の欠如からくる、ネガティブなモチベーションだと考えられるのです。

つまり、自らの正義を信ずる人は、思いやりに欠けている。
もしくはそんな余裕がない。
だから、人を傷つけても、気付かない。

「自分こそ正義なり!」
最近、こんな人が増えてませんかね?
…これって、かなり恥ずかしいです。
自分もそういうとこあるから、書くの苦しいですけどね。

結局のところ、こういう人の行動原理は、「人から褒められる」とか「認められる」というような、マズローの理論で説明される承認欲求が大きいのだと思います。
ICFで言えば「参加」かな。

自分の居場所を求めて、自らの行いを正しいと信じて、誰かに認めて欲しくて、「すごいだろー!」と人を言い負かし、暴れまわっているとしたら、こんなに空しいことはありません。
言い換えれば、寂しいって素直に言えないだけ、それで人を傷つけてる、という話ですからね。
もっと恋愛したらよかったのにな、と思うなぁ。

役所の窓口で、長時間、理路整然とクレームをつける人たちというのは、たいていこのパターンだろうと、僕は勝手に位置付けています。
いわゆる「中二病」もそうだな。

「ヒマならもっと、建設的なお話をすればいいのにね」と思う。
でもね、時間に余裕はあっても、気持ちにそんな余裕がないんです、たぶん。

ここから脱却するには、「思いやり」の心を持つことだと思うのです。

自己中心的な、自らの正論に拘らずに。
相手の話に、きちんと耳を傾けよう。
相手も気持ちを考えよう。

でも、そんな簡単なことが、どうしてできないのか?

何度も言います。
「自分は正しい」と、勝手に思い込んでいるからです。

そう思わないとやっていけないから。
誰かに認めて欲しいから。

そんなつまらない「負けない」精神から脱却し。
「思いやり」の意味を考え、深めることに力を注ぐようにしましょう。

我々の業務では、地域包括ケアシステムとか言ってますが、基本はそこ。
思いやりの精神と、緩やかながら信頼で結ばれた助け合いの仕組みを地域に面展開すること。
「我こそは正義!」と思う人が、一番いけない。
なにをするにしても、その立ち位置を間違えないようにしなくてはならないと、僕は思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 18:32| Comment(0) | 日記