2018年05月05日

社会の寛容さと具体的な取り組みを。

最近、ある芸能人が起こした、アルコールと強制わいせつに関する話題がよく取り上げられます。
起きたことは、問題というより事件であり、その是非は言うまでもないことです。
ただ、ニュースを見ていて、ものすごく気になることがあるので、やや取り上げにくい話題ではあるのですが、私見を述べたいと思います。

まず、全体の印象として。
「メンバー」は、アルコール依存症なのだろうな、と感じます。
依存症には、嗜癖や薬物としてのアルコールの特徴、心理的要因や環境など、さまざまな側面がありますが。
彼の場合、嗜好を問題ある飲酒行動のレベルまで強めたのは、世間からの「見られ方」を、必要以上に求められ続ける立場にあったからではないか、というのが僕の見解です。

あの事務所の方には、時々こんな問題が見え隠れすることがあります。
僕は、その「見られ方」や「見せ方」へのこだわりが、とても大きな要因であるように感じるのです。

簡単に言えば、自分を表に出せない状況は、継続したストレスを抱えてしまう。
自分を解放できる対象に依存するようになる。
その対象として、手軽に手に入るお酒はうってつけ。

お酒が好きでも、「見られ方」が大事な仕事だから、居酒屋では気持ちよく飲めない。
泥酔したらスキャンダルで人生棒にふるもんね。
だから家飲み。
気がすむまで飲んだら、あとは寝るだけ。
止める人がいなければ、だんだんと量は増える。
普段はものすごくいい人なのに、お酒を飲むとリミッターが外れて、人が変わる。
自分では、酔っている時の自分の異常に気づけない。
そうやっていったんハマると、自力で抜け出すことは不可能。
彼の周りの人は気になってはいても、止められない、助けを求めることもできない。
ここでも「見られ方」が悪影響。
そして、事件につながった…。
…という感じではないかと思います。
僕の思い込みかもしれませんけどね。

依存症は、病気です。
公共の電波で、宣伝するようなものではそもそもありませんが、本人にとっては、受容がまずは大切となる、“否認の病”でもある。
「まさか自分がなるわけない」という否認が治療を遅らせ、回復を長引かせたり、重症化させたりするわけです。
こういうことは、認知症でも見られますが。
依存症には、特にそういったスティグマがありますよね。

社会的にも広く知られる存在である彼が。
後ろ指を指されながら、これから先の長い人生を生きていくには、どんな支えが必要になるだろう。
アルコールに頼らず、人の支えによって回復できるものなのだろうか。
そんなふうに思う。

つまり、「なぜ依存してしまうのか」の本質を解決しなくてはならないことと、回復を助ける“人の輪”が欠かせない、と僕は思うのです。

目を真っ赤に腫らして会見に臨み、衆人環視の中で誠実に語ろうとする「メンバー」の姿勢は、僕は立派だと思いました。
なのに、「戻る場所があるのなら…」という言葉を、仲間からはっきり否定されると、正直立っていられないし、立ち上がれないと思う。
大人としては正しい対応なのだと思いますけど、彼の回復を支えるような立場はとらないのだろうか、と少し疑問に思えました。

たぶん、男の友情みたいなものは、表に出すものじゃないし。
突き放す優しさ、あるいは厳しさが必要、ということも、あると思うのです。
テレビ向きのコメントも、必要でしょう。
彼らの仕事は、社会からの厳しい品定めを、たえず受け続ける仕事でもありますから。
画面に映らないところで、支えになっていかれるだろうと、僕は信じていますけどね。

さて、本題。

この問題を通じて僕が思うのは、社会全体の寛容さ、ということです。
彼が本当に依存症なのか、ということも、ここは切り離して考えます。

人間には色々な“顔”がある。
心理学的には、ペルソナ(仮面)と呼びますが。
「メンバー」の行動が大きなニュースになるのは、アイドルというペルソナに対する、社会からの期待や信託が、高すぎるために起きていることでもあります。
ペルソナは、あくまで仮面で、表層的な役割に過ぎないのに。

身近なところで例えるなら、医者や看護師、介護職だってペルソナな訳です。
本音をさらけ出して仕事するのではなくて、優しく受容的態度で接するという「仮面」をかぶって、僕らは社会からの要請に応えようとします。
なので、時々本能むき出しの看護師さんとかに出会うと、「こえ〜〜っ」と思ったりしますけどね(笑)。

で、アメリカの芸能人を例えに出すのも変ですが。
けっこうゴシップはヒドイし、めちゃくちゃやってますよね。
それなのに、仕事が良かったら、それなりに許されちゃう、みたいな風土がある。
あの国というのは、自由であり、競争が厳しくもあるけど、失敗に対しては本当に寛容だし、そこが羨ましいな、と思うところでもある。

だって、芸能人だって普通の人間なんですから。
心のバランスを崩すことだってあるだろうし、むしろ一般人より精神の安定を維持するのは、よほど大変なはず。
そこで、精神医学や心理学が発展し、社会としてもある程度それを受容する「懐の深さ」がある。
これ、精神障害とノーマライゼーションを考える上では、重要なことですよ。

翻って、我が国の場合。
なんだか器が小さいよね…。
規範を重んじるのが、日本人の良いところでもあるのは、確かだと思うんですが…。

で、この問題を社会的側面から見た場合。

あんまり厳しい「あり方」や「見られ方」ばかり求めるのは人権侵害だと、僕は思うんです。

本音をさらけ出して、テレビの前で泣いている人を、さらに叩くという神経が僕にはわからない。
酷い目にあった当事者が怒るのは当たり前だし、それでいいんです。
でも、今騒いでる人は、「そんな人だとは思わなかった」ってだけじゃないですかね。
関係ないやつは黙ってろ、と思う。
…あ、僕も無関係ですけどね。

で、その「あり方」や「見られ方」が、依存症の問題とも繋がってるし、引きこもりや精神を病む人の増加に繋がる。
社会のあり方の病理じゃないのか、というのが僕の本当に言いたいことなんです。

日本社会というのは、本当に“ちまちま”してる、と思う。
その「小ささ」が、偏見や差別の土台になるし。
障害者に対する意識の壁や偏見を生み出すものとも、根を等しくする。

だからこそ。
この問題を考察することで、社会の寛容さを問いたい。
そんな風に思いました。

あとは、何ができるか…なんだけど。
長くなったので、このへんで。
posted by メタマネ佐藤 at 08:19| Comment(0) | 日記
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