2018年05月15日

説教、昔話、自慢話。

年をとってやっちゃいけないのは「説教」と「昔話」と「自慢話」。
ーー高田純次

テキトー男、高田純次さん。
しかし、この言葉からは、大人の思慮分別を感じますね。

僕は、高田さんのこの言葉、大好きなんです。

常々思っておりますが。
「最近の若い奴は」というのは、ろくな言葉じゃない。
だって、若くてもしっかりしてる人は、山ほどいますから。
おたくの若い頃はどうだったんだよ、と言ってやりたい。

そっから言うと、高田さんは粋ですね。
…なんか江戸っ子みたいな感じですけど。

そこで今日は、「説教」「昔話」「自慢話」について、考えてみましょう。

まず「説教」。
僕は、これは全て悪いとは思いません。
だって、熟練者が若い人を育てるのは、必要なことですから。
学校の勉強では教わらない“社会”のあり方とか渡り方を、自分なりの言葉で伝えるのは、とても重要な「経験の口伝」だと思うんです。
悪いのは、年長者から若年者を支配せんとするための「説教」。
あるいは、目的なくダラダラ喋り続ける、聞いてほしいだけの「説教」です。
「説教」は、言葉の通り「説いて教え」ること。
聞いてる側が苦痛に感じるような「説教」は、教え方がヘタってこと。
つまり、愛情のない説教は恥ずかしい、と僕は思うのです。

次に「昔話」。
「昔は良かった…」みたいな話は、たしかに聞いてて気持ちいいものではないかもしれません。
しかし、過去があってこそ、今があるわけですから、これも無駄なはずがない。
歴史を語るのは必要なことですが、僕はそこにこだわり続けるのがよくないんだと思います。
前はこうだった、うちではずっとこうしてきた。
そう言われたら、新しいことや、改善につながることも、受け入れる余地がなくなってしまいます。
まぁ、平たく言えば頑固者ってことですかね。

最後に「自慢話」。
これは、ホントにつまらないですね。
なに過去の栄光にしがみついてんだよ、と思う。
酒でも入ってたら、仕方ないかもしれんけど。
そもそも自慢話なんてのは、自分で語るものでもないし。
人から認められてこそ、だし。
そこにこだわっている時点で、器の小ささを露呈してしまっているようなものですから。
自慢したくもなるときは、誰にだってあるかもしれませんが。
とにかく、かっこ悪い。
年長者の場合は、特に見るに耐えない感じになります。

高田さんの言葉や態度から感じるのは、とにかくそんなつまらない“こだわり”を捨てること。
それをテキトー男として実践しているのだとしたら、こんなにカッコイイ大人も、なかなかいないんじゃないか、と思ったりいたします。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:40| Comment(0) | 日記
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