2019年06月25日

正見と邪見。

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仏教には、物事を正しく見る「正見」という教えがあります。
まずは、ちょっとしたお話から。

室町時代、蓮如という有名なお坊さんがいました。
ある日のこと。

とんちで有名な一休さんが、立派な松の木の前に立て札をしました。
「この松が、まっすぐ見えたものには金一貫を与える。」

松の木は、ぐねぐねと曲がりくねっていて、どんな角度から見てもまっすぐには見えません。
見物客は、色々な角度に傾けて見たり、近くの木や建物によじ登ったりして、なんとかまっすぐに見える方法を探しました。
それでも、どうやってもまっすぐに見ることはできなかったのです。

そこに通りがかった蓮如上人。
「なんだ、そんなことか」と、こともなげに言いました。

「私がまっすぐに見てあげよう。
正直に、この松はねじ曲がっている、と言えばいいんだよ。
曲がっているものを、素直に曲がっていると見ることを“まっすぐ見る”と言うのだ」と説明したのです。
「白いものは白、黒いものは黒と、ありのままに見るのが正しい見方であり、これを正見という。
曲がった松を、なんとかまっすぐ見えるように見ようとするのは曲がった見方であり、これを邪見というのだ」

仏教の思想には、この「物事を正しく見る」という正見の概念があります。
要するに、物事をありのまま脚色せずに見る、ということなのですが。

この発想は、私達の仕事でも大切な、アセスメントの基本に通じる、と思います。

ケアマネとして利用者の方とお話しするとき。
冷静に、客観的に状況判断をしながら先方の話を聞くようにしますが。
それでも、ある程度は自分なりの見方や捉え方の“クセ”というのが出てきます。

「この人はこんな人」
「ここの家族は難しい」
「きっとこれは、こういう意味だろう」
といったように。

悪意はなかったとしても、先回りして補足的な分析を加えて、“こんな人”という像を作り上げてしまうことがある。
人間には多様性があるので、そんな簡単にカテゴリ分けできるものではないはずなのに。
自分の見たいような視点でしか、見えなくなってしまうんですね。

そうなると、自分の作った色眼鏡でしか相手を捉えることができないようになってしまう。
そして、自分がそんな色眼鏡をかけていることには、自分では気付きにくいんです。

これこそが、「邪見」の怖さ。

ですから、自分の見立てに自信を持って、疑問を抱かなくなるのは怖いことだと思います。
その一方で、いつまでも自分の見立てに自信が持てないというのも、それはそれで困りもので。
自信がないでは済まされないのが、この仕事の奥深さでもある、と日々思うのです。

結論。

ちょうどよいバランスで、自分や他人、物事を客観的に「正見」できることが必要なのです。
それは、生涯発達の視点で、自分の「目」を磨き続ける必要があるのかもしれませんね。
posted by メタマネ佐藤 at 01:00| Comment(0) | 日記
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