2012年04月02日

短期連載「仏教」〜仏陀の生涯〜

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短期連載「仏教」の第7回は、開祖である仏陀の生涯について見ていきましょう。

世界三大宗教のひとつと言われる仏教を拓いた仏陀とは、いったいどんな人物であったのでしょうか。

仏陀が生まれたのは、西暦前5世紀頃のこと。
場所は現ネパール領のルンビニー地方。
シャカ国の王子として誕生しました。

当時のインド周辺事情は、多くの部族紛争が絶えない、言わば戦国時代の様相でした。
仏陀が生まれたシャカ国も、彼の晩年に滅亡しています。

そんな激動の時代に生まれた仏陀。

誕生時の有名なエピソードが、生まれてすぐに7歩歩き、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下 唯我独尊」と言葉を発した、というもの。
直訳すると、「全世界で私が一番尊い」という言葉になります。
すごく尊大な感じもするのですが、これは悟りへの絶対性と、誰でも悟りは開けるという、人間の尊厳を表した言葉だと解釈されています。

他にも、手指の間に水かきがあった、とか。
体毛が旋回状に生えていた、とか。
歯が40本、隙間なく生えていた、とか。
頭頂部に肉髷が隆起していた、とか。
こうした身体的特徴を、仏陀の“三十二相”と言います。

そんな特徴をすべて兼ね備えているならば、およそ普通の人間とは思えませんね。
まぁ、仏陀ほどの人物ともなれば、超人化して、いろんな伝説がついてくるのも、ある意味当然でしょう。

ただ、ここからは少しリアルな話。
彼が29才の時、老病死に苦悩するあまり、国も家族も捨てて、出家したのは事実のようです。

仏陀は若き日の苦悩について、
「自分はいかに大切に育てられたか。
老病死を知り、恐怖と醜さにおののき。
それが自らに起こる現実であると知ると、若さの意気は失われた」と述べています。

仏陀は、愛する家族や国王としての豊かな暮らしを捨て、髪を切り、粗末な修行衣を身に纏い、修行の旅に出ます。

当時の東インドには、“沙門”と呼ばれる修行者の一団がありました。
沙門の生活は無所有を旨とする、厳しいもの。
屋根のあるところには寝ず(出家の語源)、托鉢によって食を得て、着物は他人が捨てたものを纏った。
こうした難行の他にも様々な苦行を行い、自我との対決を行うことによって、心の平静を手にいれることに成功する。
しかし後年、それによってのみでは「悟りは開けなかった」と述べています。

苦行をやめ、瞑想に入る仏陀。
瞑想する彼に“悪魔”が働きかけ、「悟りを妨げた」といいます。
その悪魔とは、欲望、嫌悪、妄執といった自我欲望のこと。
言うなれば、こうした自我との闘いこそが、仏陀の修行の本質であった、と見ることができます。

さて、少し振り返り。

これまでの記事でも書いたように、仏教の本質は「苦をどう理解するか」という部分にあります。
思い通りにならない人生に対して、自分を正しくコントロールする方法を学び、実践すれば、心も生活も安らかになる。

しかしそれは、当時仏陀が生きていた時代にはそぐわない思想でした。
世には苦が溢れ、理不尽な死が横行する。
人心は乱れ、常に争い、欲望を満たそうとする。

「皆に説明したところで、悟りの概念は分かってもらえないだろう。
そうであれば、誰かに教える必要もない……。」と決意しかけた仏陀に、梵天が「世にはその教えを理解できるものもいるはずだ」と説法することをすすめた、という。
これが、宗教としての仏教の起こり。

仏陀は民衆に、神ではなく法を説き、生きるすべを教えた。
次第に弟子を増やし、諸国を遍歴しながら伝道を行った。
その旅は、実に45年もの長きに及んだそうです。

時は流れて。

80才になった仏陀。
もうすぐ死に向かう、というときに。
動揺する弟子のアーナンダに、二つの重要な教えを説いた。

第一に「自分は教団の主ではない」と説いた。
「自分は、惜しみ無く法を説いてきただけである。
仏教の持つ宗教的真実は、誰が教えるとも教えずとも、万人を支え、生かす仕組みである。
仏の教えは万人に開かれているし、やろうと思う各人が、それぞれ実行すればよいだけのこと」

第二に、自灯明、法灯明の教えを説いた。
「“灯明”とは、夜道を照らす明かりのこと。
心安らかに生きるかどうかは、自分自身の問題であるから、自己を頼りとしなくてはならない。
心細いときには、法を頼りに生きると良い。
すなわち、自己と法をひとつながりにして、自らの進む道を照らすことが大切なのだ」

やがて、仏陀は二本の沙羅双樹の間に、頭を北にして体を横たえた。
仏陀は最期に「すべては移り変わるものである。怠ることなく実践せよ」と臨終の言葉を発したという。

こうしてみると、仏陀の教えは特別な奇跡を伴うようなものは、何もない。
仏教は、苦しみに向き合い、心安らかに受け入れる為にはどうすれば良いのか、という実践論なのです。

仏陀の教えは、今から2500年も昔に実在した、偉大なる先哲の言葉として、味わうべきものと感じられます。
posted by メタマネ佐藤 at 21:16| Comment(0) | 仏教
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