2012年04月16日

短期連載「仏教」〜仏陀の言葉〜

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「仏教」に関する連載シリーズも10回目。

今日は、仏陀の残した言葉について触れていこうと思いますが、その前にちょっとおさらい。

仏教の教えは、生きている以上避けられない“苦”に、どのように向き合えば良いのか、というものです。
あらゆるもの連なりを意識し、自らの存在を空とし。
執着から解放されるための法。
それを体現する「お経」は、仏陀の教えを後世に伝えるものであり、「仏陀の言葉」に由来する。

そんな訳で、今日はシリーズの最終回でもありますし、「仏陀の言葉」そのものに触れてみようじゃないか、というわけです。

そこで、いわゆる経典の中でももっとも古い、原始経典ニカーヤ(阿含経)とスッタニパータ(経集)から、現代語訳版の“仏陀の言葉”をお届けしましょう。

「私はあの人より優れている」とか「あの人と同等だ」とか「あの人より劣っている」と考える人は、それによって言い争うことになろう。
これら三種の考えに心が惑わされない者には、「勝れている」とか「同じだ」ということ自体が存在しない。

人の寿命は短い。
すぐれた人は、寿命を過大視するなかれ。
髪の毛に火がついた人のように行動せよ。
死が訪れないなどということは無いのである。

息子を持つものは、息子のことで思い悩む。
牛を持つものは、牛のことで思い悩む。
人は自分が執着しているもののことで思い悩む。
実に、執着の無い人は、思い悩むことはない。

自分を苦しめず、他者を傷つけることもない、そんな言葉だけを語れ。
それこそが「正しく語られた言葉」というものである。

人々は「自分のものだ」と執着した物のせいで苦しむ。
なぜなら、自分の所有物は常住ではないからである。
「それは離れ行くものだ」と見て、在家に留まっていてはならない。

……いかがでしょうか?

現代語に超約されていますので、ニュアンスが伝わりやすいのではないでしょうか。

しかしこうして見ると、仏陀のといた仏教というのは、相応に相当広い概念であるとも言えます。

そして。

およそ2か月にわたりお届けしてきた「仏教」のシリーズも、今回で一応最終回、ということにさせていただこうと思います。

次回連載は……なんにしようかな。
posted by メタマネ佐藤 at 22:54| Comment(0) | 仏教

2012年04月09日

短期連載「仏教」〜お経と伝来〜

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さて、連載8回目の本日は、お経について取り上げます。

一言で言ってしまえばお経というのは、開祖である仏陀の言葉を後世に伝えるためのもの。
元々は弟子の口伝によっていた「仏陀の教え」。
それを「仏陀からこのように聞きました」という形に変えて残したものが、いわゆる“お経”なんですね。

原始経典は、9種類に分類されると言います。
仏陀の教えをそのまま文章にしたものは「経」、韻文は「伽陀(ガーター)」、仏弟子の未来を語った「記別(ヴィヤーカラナ)」など、その内容や性質によって分けられます。

仏陀の入滅後、仏教徒は2つの大きなムーブメントに分類されることになります。

まず、仏陀の言葉により誠実に、教えを頑なに守ろうとしたのが「上座部仏教」。
その教えとするところは、出家が基本。

対して「大乗仏教」は、それまでの経典をベースとしながらも、あらゆる執着から解放され、独自の仏典を開発していった。
こうした活動を引っ張ったのは、自由な発想を旨とする一団と、在家の仏教者たちであったという。

仏陀の教えは、高いレベルの自己抑制、自己制御を必要とするため、反面一般には浸透しにくい教えであった。
それを、民衆に分かりやすい形で、ハードルを下げることによって教えを広めたのが「大乗仏教」であった、と捉えかたもできます。

つまり、仏教が普及したのは、2つの要因による。

ひとつは、弟子たちが仏陀の教えを残そうとして、「経典」にしたということ。
ふたつは、その教えを大衆向けに、ソフトにアレンジした「大乗仏教」に分派したこと。

それらの要因によって、仏教は広く伝来することになるのです。

いわゆる経典についても、元々は西インド地方の方言、バーリ語で書かれていた。
それが、サンクスリット語に訳されたものが大乗仏教で、私たちが日頃耳にする「お経」には、このサンクスリット語が多く含まれています。

それらの経典の多くを、漢字に翻訳したのが、西遊記で有名な三蔵法師。
お経というのは、漢字にしてもふりがなが無いと読めないし、意味も分からないですよね。
これは、サンクスリット語を漢約したものを、言わば当て字のようにして読んでいるからなのだそうです。

そうしてインドから中国に来たものが、さらに日本に伝来した。
日本に入った仏教は、多くの高僧の手によってさらに分派し、広まっていった、というワケです。
その中で、次第にお経は付加されたり、削られたり、一部に特化した内容になったり、と変遷を遂げていきました。

では、仏陀が元々言っていたことというのは、一体どんな内容立ったのか、というのが気になりますね。

それは最終回の「仏陀の言葉」の中で、見ていくこととしましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 23:27| Comment(0) | 仏教

2012年04月02日

短期連載「仏教」〜仏陀の生涯〜

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短期連載「仏教」の第7回は、開祖である仏陀の生涯について見ていきましょう。

世界三大宗教のひとつと言われる仏教を拓いた仏陀とは、いったいどんな人物であったのでしょうか。

仏陀が生まれたのは、西暦前5世紀頃のこと。
場所は現ネパール領のルンビニー地方。
シャカ国の王子として誕生しました。

当時のインド周辺事情は、多くの部族紛争が絶えない、言わば戦国時代の様相でした。
仏陀が生まれたシャカ国も、彼の晩年に滅亡しています。

そんな激動の時代に生まれた仏陀。

誕生時の有名なエピソードが、生まれてすぐに7歩歩き、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下 唯我独尊」と言葉を発した、というもの。
直訳すると、「全世界で私が一番尊い」という言葉になります。
すごく尊大な感じもするのですが、これは悟りへの絶対性と、誰でも悟りは開けるという、人間の尊厳を表した言葉だと解釈されています。

他にも、手指の間に水かきがあった、とか。
体毛が旋回状に生えていた、とか。
歯が40本、隙間なく生えていた、とか。
頭頂部に肉髷が隆起していた、とか。
こうした身体的特徴を、仏陀の“三十二相”と言います。

そんな特徴をすべて兼ね備えているならば、およそ普通の人間とは思えませんね。
まぁ、仏陀ほどの人物ともなれば、超人化して、いろんな伝説がついてくるのも、ある意味当然でしょう。

ただ、ここからは少しリアルな話。
彼が29才の時、老病死に苦悩するあまり、国も家族も捨てて、出家したのは事実のようです。

仏陀は若き日の苦悩について、
「自分はいかに大切に育てられたか。
老病死を知り、恐怖と醜さにおののき。
それが自らに起こる現実であると知ると、若さの意気は失われた」と述べています。

仏陀は、愛する家族や国王としての豊かな暮らしを捨て、髪を切り、粗末な修行衣を身に纏い、修行の旅に出ます。

当時の東インドには、“沙門”と呼ばれる修行者の一団がありました。
沙門の生活は無所有を旨とする、厳しいもの。
屋根のあるところには寝ず(出家の語源)、托鉢によって食を得て、着物は他人が捨てたものを纏った。
こうした難行の他にも様々な苦行を行い、自我との対決を行うことによって、心の平静を手にいれることに成功する。
しかし後年、それによってのみでは「悟りは開けなかった」と述べています。

苦行をやめ、瞑想に入る仏陀。
瞑想する彼に“悪魔”が働きかけ、「悟りを妨げた」といいます。
その悪魔とは、欲望、嫌悪、妄執といった自我欲望のこと。
言うなれば、こうした自我との闘いこそが、仏陀の修行の本質であった、と見ることができます。

さて、少し振り返り。

これまでの記事でも書いたように、仏教の本質は「苦をどう理解するか」という部分にあります。
思い通りにならない人生に対して、自分を正しくコントロールする方法を学び、実践すれば、心も生活も安らかになる。

しかしそれは、当時仏陀が生きていた時代にはそぐわない思想でした。
世には苦が溢れ、理不尽な死が横行する。
人心は乱れ、常に争い、欲望を満たそうとする。

「皆に説明したところで、悟りの概念は分かってもらえないだろう。
そうであれば、誰かに教える必要もない……。」と決意しかけた仏陀に、梵天が「世にはその教えを理解できるものもいるはずだ」と説法することをすすめた、という。
これが、宗教としての仏教の起こり。

仏陀は民衆に、神ではなく法を説き、生きるすべを教えた。
次第に弟子を増やし、諸国を遍歴しながら伝道を行った。
その旅は、実に45年もの長きに及んだそうです。

時は流れて。

80才になった仏陀。
もうすぐ死に向かう、というときに。
動揺する弟子のアーナンダに、二つの重要な教えを説いた。

第一に「自分は教団の主ではない」と説いた。
「自分は、惜しみ無く法を説いてきただけである。
仏教の持つ宗教的真実は、誰が教えるとも教えずとも、万人を支え、生かす仕組みである。
仏の教えは万人に開かれているし、やろうと思う各人が、それぞれ実行すればよいだけのこと」

第二に、自灯明、法灯明の教えを説いた。
「“灯明”とは、夜道を照らす明かりのこと。
心安らかに生きるかどうかは、自分自身の問題であるから、自己を頼りとしなくてはならない。
心細いときには、法を頼りに生きると良い。
すなわち、自己と法をひとつながりにして、自らの進む道を照らすことが大切なのだ」

やがて、仏陀は二本の沙羅双樹の間に、頭を北にして体を横たえた。
仏陀は最期に「すべては移り変わるものである。怠ることなく実践せよ」と臨終の言葉を発したという。

こうしてみると、仏陀の教えは特別な奇跡を伴うようなものは、何もない。
仏教は、苦しみに向き合い、心安らかに受け入れる為にはどうすれば良いのか、という実践論なのです。

仏陀の教えは、今から2500年も昔に実在した、偉大なる先哲の言葉として、味わうべきものと感じられます。
posted by メタマネ佐藤 at 21:16| Comment(0) | 仏教

2012年03月26日

短期連載「仏教」〜三法印〜

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さぁ、だいぶ佳境に入ってきた感がある、短期連載「仏教」。
連載6回目の今日は、三法印を取り上げます。

三法印とは、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
一切皆苦(いっさいかいぐ)
諸法無我(しょほうむが)
の三つ。

では、ひとつずつその意味するところを見ていきましょう。

まず、諸行無常。
平家物語の冒頭にもある言葉ですね。
後半の“無常”を、滅んでしまった平家と重ねて、悲壮感のある言葉のように捉えがちなんですが。
それは、“無常”を“無情”の意味と捉え違えています。
“無常”とは、「常に同じものはない」という意味。
“諸行”とは、あらゆる存在や現象を指します。
つまり、あらゆる物事は一定ではなく、変化し続けているという意味。
いつまでも若く、健康でいることなどできない。
全ての事象はうつろいゆくことを理解し、受容する。
それが、“諸行無常”の意味。

二つ目の一切皆苦。
これは、これまでの連載記事から見て貰うとわかりやすいです。
全てのことは、自分の思い通りにならない苦である。
なのに、人は全て自分の思い通りになると勘違いしてしまうことから苦を生ずる。
苦が生まれる仕組みを理解できれば、苦を遠ざけることはできる。
苦そのものはどうすることもできないのだから、自分の思い、捉え方を変えてみる、という工夫を学ぶべきなのだ。
そのためには、全てのものは思い通りにならない苦であるという自覚を持たなくてはならない。
すなわち、“一切皆苦”。

三つ目の諸法無我。
全てのものは、関連性の集合体である。
先週の因縁生起の考え方です。
例えば、玉ねぎの皮を全て剥いていくと、最後にはなにも無くなってしまう。
人間も同様であり、いくつかの要素の集合体が自分である。
つまり、自我があるように思うだけで、実態はないのである。
集合体を繋ぎ止める縁起の糸は、いずれほどけて我は離散する。
無いはずの“我”に執着しないことが理解できれば、苦しみは遠のく。
そこには絶対の神も、不滅の霊魂も無い。
あるのは、意識と現象の連鎖(すなわち法)だけである。
これが、諸法無我。

つまり。

「全てのものは変化し、うつろう。」
「世の全ては苦であるが、自分の捉え方を変えることはできる。」
「全ては縁起によって結ばれた一時的な状態であり、我は幻である。」
ということが三法印。

悟りに至る道とは、まさにこの三法印を徹底して理解することである、ということなんですね。

これに涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を入れて、四法印とすることもあります。
涅槃寂静は、悟りの境地にいたり、安寧な心を得た状態のこと。
仏像の穏やかな表情は、まさにこの涅槃寂静を表しています。

世に溢れる苦しみを癒し、悟りに至る道を拓いた仏陀。
それは、心の安寧を得るための哲学である、ということもできるでしょう。

さて次週は、いよいよ仏陀の生涯、悟りに至る道について取り上げます。
お楽しみに〜〜。
posted by メタマネ佐藤 at 21:32| Comment(2) | 仏教

2012年03月19日

短期連載「仏教」〜縁起〜

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さて、短期連載仏教も5回目。
本日取り上げるのは、「縁起」です。

私たちは普段から「縁起がいい」とか「悪い」とか言いますね。
まぁ、ジンクスというか、不確定だけども何となく関連性があるような気がする、というようなときに使います。

だけどこの使い方は、本来の意味とは違う。

もともと縁起とは、「因縁生起」が略された言葉とされます。

因とは、直接的な原因のこと。
縁とは、間接的な要因のこと。
その二つの関連性によって、世のすべては起こる(生起)。

すなわち縁起とは、万物の関連性を意味する言葉なのです。

それをあらわす仏陀の言葉。
「これあるによってかれあり、
これ生じるによってかれ生じる。
これないときかれなく、
これ滅するによりかれ滅する。」

全てのものは相互に関連する。
あらゆる存在や事象は、様々な要素が重なりあいながら生じている一時的な状態にすぎない。

こうした視点にたって、先日述べた「苦」が、どのような因縁によって生起するのか探る、というのが縁起の考え方。
こうした流れを“因果律”と呼び、如来がこの世に現れようと無かろうと、定まっている法(ダルマ)である、とされます。

その法を理解して、わかりやすく教えてくれたのが仏陀。
こうした点で、絶対的な唯一神を奉じる宗教と仏教は、大きな違いがあるのです。

つまり、縁起の着想は、仏教の本質とも言える部分。
縁起の視点から、苦が発生する仕組みを理解する、というところが重要なのです。

では、その苦の生じるプロセスについて、もう少し具体的に説明しましょう。

十二縁起と三縁起がありますが、ここではシンプルに三縁起を元に解説。

三縁起とは、取、著、愛をいう。
取(無明)…苦が生じるそもそもの原因のこと。物事の原因がわかっていない、根本的な無知を言う。
著(執着)…無知によって執着が生まれる。様々な欲望に執着すると、それを手放したくないという愛(苦悩)が生じる。
愛(苦悩)…仏教で愛とは、苦を意味する。愛が起こった場合は、なぜ苦しいのかチェックすることでその原因と解決方法がわかり、苦を滅することができる。

無明が執着をうみ、苦悩を生じる。
これが縁起の基本の流れ。
次に、これを逆からたどる。

「なぜこの苦しみは起こったのか」
「こうでなくてはならないという、執着が強かったからではないか」
「ではなぜそこに執着していたのだろうか」
「物事の本質に対する理解ができていなかったからだ」
「そのために、進むべき方向を間違っていたのだ」

といった具合です。

つまり、無知によって苦はもたらされる。
それを理解することで、苦を滅する。
あらゆるものの関連性を意識する。
それこそが、縁起。

絶対普遍な存在はない。
全てのものは相互に影響し、絶えず変化し、連鎖し、万物流転の様相を呈する。
その大きな流れのなかにある“苦”を、どのように理解するか。

縁起とは、その関連付けの方法論と解すると解りやすいでしょう。

生まれ、老い、病み、死んでいく苦悩。
家族や愛する人とわかりあえない苦悩。
求めるものが手に入らない苦悩。
憎い相手と会わねばならない苦悩。
そうしたものに翻弄され、心と体が休まらない苦悩。

その苦を解体する答えを、縁起の方法論で見つめてみる。
苦そのものを滅することはできないが、縁起の発想で受容することはできる。
それこそが、悟りに至る道程。

簡単なことのようですが、実践するのはなかなか難しいですね。

次回は三法印について、触れてみましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 20:24| Comment(2) | 仏教

2012年03月12日

短期連載「仏教」 〜八正道〜

連載記事も第4弾。
これまでをざっとダイジェスト、「仏教の教え」。

まず、生きることは苦の連続である、という自覚を持つ。
苦を集約すると四苦八苦になる。
これをうまく解体する方法が八正道。
それを実践すると、生きやすくなる。

つまり本日のテーマである八正道は、苦を乗り切るための“実践法”という訳です。
早速、どんなことをすればよいか、見ていきましょう。

正見…正しい物の見方をする。
正思…正しい考え方をする。
正念…正しい思念を持つ。
正定…正しい瞑想をする。
正業…正しい行いをする。
正命…正しい生活を送る。
正精進…正しい努力をする。
正語…正しい言葉を使う。

…う〜〜ん、これだと少し分かりにくいですよね。
要は思念や行動を調えることが大切だってことで、カテゴリ訳されているのですが。
そもそも「正しい」ということが何なのか、わかりづらい。
というか、そんな「正しい」ことを常に実践するというのは、すごく息苦しい感じがします。

しかしみなさん、案ずるなかれ。
この「正しい」が、何をいっているかがミソ。

ズバリ、“正しい”=“中道”。

中道とは、バランスのよい、偏りのない“道”を生きなさい、ということなんです。

例えば、快楽と苦行。
快楽のままに行動していると、エゴイズムに流されて「あれも欲しい」「これも欲しい」と、苦が深まる。
苦行に没頭しすぎても、マニアックな価値観に染まって、人間性を見失ってしまう。
だから、ちょうどよい頃合いの見方や考え方と言うのを身に付けなさい。→八正道。

例えば、断見と常見。
断見とは、人生に現世も来世もない。死んだらそれでおしまい、という考え方。
常見とは、現世と来世は輪廻転生で繋がっていて、苦が滅するまで連続する、という考え方。
これも偏った考えにとらわれないように。
死んだら終わりとか、来世に期待するとかより、今を大切に、できることをしましょう。→八正道。

ということなんですね。

「先週取り上げた四苦八苦。
これは無くならないけども。
そこに拘ってもしかたない。
それより心や身体を調えて。
清く正しく、バランスよく生活することが、一番苦を和らげてくれるんですよ。」

そんな、“道”を仏陀は説いているのですね。

どうでしょう、なんだかほっとしませんか?

僕はこれを見たときに、「ああ、やっぱりそういうことが大切なんだなあ」と思いました。

心と身体を調える、八正道の生き方。
実践はなかなか難しいけど、そういう生き方ができる人は素敵です。

次回は、仏教の思想に於けるもうひとつの根幹、「縁起」を取り上げます。
おたのしみに〜〜。
posted by メタマネ佐藤 at 20:01| Comment(2) | 仏教

2012年03月05日

短期連載「仏教」〜四苦八苦〜

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どうも、メタマネです。

月曜日は連載記事の日ということで。
先日から取り上げている仏教についての記事も、これで三回目となります。

先日も述べましたが、仏教の言う「苦」とは、その苦しみそのものというよりも、生きていく上で避けてとおれない「苦悩」と捉えるべき概念。

その苦の具体的概念を表すのが、本日取り上げる“四苦八苦”。
先週取り上げた、「四聖諦」にいう「苦諦」を意味します。

まず四苦とは、“生老病死”のこと。

すなわち、
生…生まれてくる苦しみ
老…老いる苦しみ
病…病気になる苦しみ
死…死んでいく苦しみ
の4つを言います。

さらに、
求不得苦(ぐふとっく)…求めるものが手に入らない苦しみ
怨憎得苦(おんぞうえく)…怨み憎しむ相手に会わなければならない苦しみ
愛別離苦(あいべつりく)…愛する者と別れねばならない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…心身がコントロールできない苦しみ
を加えた合計8つを、“四苦八苦”と呼びます。

おそらく、誰しもが納得するような「苦」が、そこにはありますね。

大体、字が意味を表していると思うのですが、最後の五蘊(ごうん)は、ちょっと分かりにくいかも。

五蘊とは、身体と精神を構成する要素を5つに分けたものを言う。

すなわち
色(しき)…身体
受(じゅ)…感受性
想(そう)…概念化
行(ぎょう)…意思、欲求
識(しき)…認識、判断
を指します。

全ての苦は、最終的に五蘊盛苦に集約される。

要約すれば、「苦は無くならない。しかしそれらは、最終的には身体や精神活動に帰ってくる。五蘊が盛んに活動すると、また新たな苦を生じる。苦悩は堂々巡りをして大きくなっていく。」というのが、四苦八苦。
死を迎えることでしか終わらない、苦悩の連鎖を表しているのです。

苦悩は新たな苦悩を産み、激流のように私たちのこころを翻弄する。
しかし、その激流を越える筏(いかだ)は、仏教の教えの中にある。

次回は、その筏である“八正道”について、取り上げてみたいと思います。
posted by メタマネ佐藤 at 20:35| Comment(3) | 仏教

2012年02月27日

短期連載「仏教」〜四聖諦〜

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さて、今回から「仏教の教え」の世界に、本格的に入っていきますよ♪

んで。

先に結論的なことを言いますけど。

仏教の教えは、「生きることは、すなわち苦である」という自覚からはじまります。
この「苦」については、実際の苦しみを指すというよりは、「思い通りにならない苦悩」を指す、と考えた方がよいでしょう。

実際、思い通りにならない現実を、思い通りに変えるというのは不可能。
人は誰しも「死にたくない」と思っても死ぬし、「年を取りたくない」と思っても老いる。

そうした苦悩から、逃れようとすればするほど、苦悩は深くなる。
目を閉じて、それを見ないようにしようとしても、苦悩は変わらずそこにあり続ける。

だから、自分の“思い”の方を変えてみよう。
見方を変えよう、考え方をととのえよう、ということが仏教の本質と言えるワケです。

日頃から私たちは、そうした“苦”に対して、事実を歪曲してとらえたり、ごまかしたりすることで、どうにか適応している。
しかし、どうやっても「生きている以上は逃れられない苦しみ」というものがある。
それを「四苦八苦」と仏陀は言います。

今回取り上げる四聖諦(ししょうたい)とは、
苦諦(くたい)…「生きることの苦(四苦八苦)とは何か」
集諦(じったい)…「苦に執着するのはなぜか」
滅諦(めったい)…「苦しみを解体すれば心安らかになる」
道諦(どうたい)…「その方法は、八正道である」
という四段論法のこと。

「生きることの苦しみに、上手に向き合うための方法、それが仏教の教えなんですよ」ということなんです。
四聖諦とは、その構成概念なんですね。

そしてこの視点から、新たなお題が出てきました。

それは。

苦悩のもと、四苦八苦とは何か。
元々ある苦が、人によって、状況によって違うのはなぜか。
苦を安らかに受け入れる実践法、八正道とはなにか。

といった問い。

次回は、「四苦八苦」を取り上げます。
posted by メタマネ佐藤 at 21:00| Comment(0) | 仏教

2012年02月20日

短期連載「仏教」 〜プロローグ〜

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どうも、メタマネです。

これまで数回に分けて連載した記事が、以外と好評を頂きましたようでして。
これからも、「何か連載記事を書いてみよう」と思いました。

ただ、連日書くとなると、結構しんどいものでして。
日曜日に“メタセレクション”を書いてるような感じで、月曜日は連載記事の日にしようかな、と思います。

んで、今回。
まず取り上げてみようと思ったのが「仏教」。

チョイスがシブイでしょ(*^^*)。

世界三大宗教のひとつである、仏教。
その開祖であるブッダが残した数々の教え。

「なんで仏教特集なのか?」と言うと。

私たち日本人は、そのほとんどが仏教徒ですが、残念ながら“敬虔な”と言えるほど、その教えについて詳しくはない。
私も、その「詳しくない」一人です。

んで。

ターミナル期でよく語られるものに、エリザベス・キュブラー・ロスの「死の受容」過程があります。
私も、彼女の著作を読みました。
そこで語られる死生観には、人間存在に関わる普遍的な真理があると感じます。
そしてまた同時に、その源流にはクリスチャンとしての真理があると感じます。

スピリチュアルペインと向き合う過程で、救いのひとつが宗教にあると仮定した場合。
私たち日本人が拠り所とするのは、やはり仏教ではないでしょうか。

しかし、そのわりに私たちは、あまりその教えとする所や、言葉の意味を知らない、と思うのです。

もう一点。

ターミナル期に限らずとも、私たちはいずれ皆死んでいきます。
そしておそらく、ご利用者様の大半は、私たちより先に旅立っていかれることになります。
なかには、ある日突然に、別れがやってくることもあります。

そうした自覚を、私たちは普段の関わりに持てているでしょうか?

僕は、そう自問すると「自信がない」と答えます。

だからこそ、「仏教の精神を学ぶ必要がある」と考えたのですね。

まぁ、私は僧侶でも宗教学者でも無いわけですから、記事を書くにあたっても、「そりゃ違うでしょ!」みたいなところもあると思うんです。
その辺は、素人の独り言として、寛大な心で見ていただければ幸いです。

初心者レベルで仏教に触れてみよう。
お経の意味を調べてみよう。
それを援助に活かそう。

そうして思い立って、いろいろ調べてみると。

やはり仏教は深く、面白い。

なかでも、その教えの核である「法」には、普遍的な手がかりが感じられる。

次回からは、誠にふつつかではありますが、その意味するところを少しずつ探り、お話ししてみようと思います。

ゆるりと、な。
posted by メタマネ佐藤 at 20:41| Comment(2) | 仏教