2019年07月27日

孤独と憎悪。

人は、人の輪の中でしか生きていけない。
孤独は、何よりも辛いもの。

自分が世の中の誰からも、見向きもされないとしたら、それは自分自身に存在意義がないと考えるべきか。
それとも、社会の側に存在意義がないとみなすのか。

「所属と愛情の欲求」や「承認欲求」の欠乏は、時に人を憎悪に駆り立てる。
「こんなに自分は素晴らしい人間なのに、どうして誰からも相手にしてもらえないんだ」

世界に70億人の人間がいても、結局は自分というフィルターを通してしか、世の中とは関われない。
つまり、自分の感じた世界こそ、すべて。

孤独であれば、考えに共感してくれる人はいない。
誤った考えを訂正する人間もいない。

彼は部屋に引きこもり、“なにもしていない”。
ただ、その胸の内に孤独と憎悪を育てているだけだ。

寂しさは、人の暖かさでしか救われない。
それは多くの場合、待っているだけでは得られないものだ。

他者は、自分の感情を映す鏡のようなもの。

ぬくもりには、ぬくもりが。
憎しみには、憎しみが。

ぬくもりと憎しみは、他者への関与という意味では同質のもの。
愛情ゆえの憎しみ、というものもある。
「自分をわかってほしい、相手をわかりたい」ということだ。

愛情と憎しみの対義語は、無関心。
いてもいなくても同じ。
空気のような存在。
そんな存在の軽さに、自我が耐えられなくなる。

もっとも苦しいのは、無視されること。
存在を否定されてしまうこと。

だから、孤独は苦しい。

心は自我を肯定する言い訳を始める。
「自分は正しい」。

ネガティブな感情の発露は、さらなる孤独の悪循環を産む。
攻撃性が自身に向くと、自傷行為や自死念慮となり。
他者に向くと、社会に倒する憎悪犯罪となる。

僕は、京都アニメーション放火殺人犯の言う「パクりやがって」の意味不明な犯行動機は、そうした感情の発露ではないかと思う。
時折起きる、孤独な若者の通り魔的な犯罪は、世の中に無視され続けた人間の断末魔に見える。

だからといって。
人の輪に入る努力をしないものに、他人の人生を踏みにじる資格などない。
どれほど世の中を恨んでいたのだとしても。

人は、人の輪の中でしか生きていけない。

どんな場面でも共通して言えることがある。
愛情やぬくもりは、与えられるのを待つのではなく、自分から率先して与えなければならない。
与えたならば、見返りを期待してはいけない。
自分から「してあげた」と言いふらさないことも大切だ。

当たり前のことだけど、大人になるほど見落としてしまう。

いま一度、胸に刻みつけておこう。
posted by メタマネ佐藤 at 00:13| Comment(0) | 日記

2019年07月24日

小さな嘘。

小さな嘘ってありますね。
「このくらい、なんてことはないだろう」という。

人の誘いを断る時に、嘘の予定を言ったり。
ちょっとした愛想のつもりで言ったり。
それらしく言い訳してごまかしたり。

その多くは、少しでも相手によく思われたいという、「保身」の気持ちが吐かせるものです。

小さな嘘が怖いのは、それを言っている自分自身が「このくらい、大したことはないだろう」と思ってしまうことです。
実際、大したことはない。

しかし、小さな嘘というのは、嘘をついている自分自身が「悪いと思っていない」ことに問題があるのだと僕は思います。
ごまかすことに慣れてしまうというのでしょうか。

最近、ものすごく世間を賑わせている闇営業問題ですが。
私は当初、「こんなことがなぜ問題なのか」と思ってました。
しかし、ごく直近になって意識が変わりました。

発端は、小さな嘘と保身。

会社に嘘をつき、世間に嘘をつき。
誤魔化そうとしたところが全て。

会社は、社員を守ろうとする。
ところが、自分たちにも小さな嘘を吐かれていたことがわかる。
これでは、守るに守れない。
要は誠実さの問題なのです。

小遣い稼ぎに若手を巻き込んで。
「会社の仕事だけでは食えないから」という議論になってるけど、違うでしょ。
体制批判するなら、こういうタイミングじゃなくて、健全な議論の中で、建設的にやることです。

たいしたことでもないのに、問題をおおごとにしたのは、小さな嘘に対する保身の悪循環。
あとは直営業を容認してきた、会社風土に問題があった。
これは、いずれも他人事ではないなと思いました。

会見について、いろんな意見がありますが。
その内容に、何か思うとすれば。
テレビに出慣れている人と、普段出ることがない人では、プレゼン力が違うな、ということです。

経営陣の方々は、本当に気の毒だと思いました。
タレントをマネジメントすることの難しさって、こういうことなんだなと思ってしまいました。
ちょっとした言葉のあやで、世の中を敵に回されてしまう。

私は、お笑いってほんとにすごいなと思ってますし、お笑い芸人さんの「おもろい」哲学は、世の中を変える力があると思っています。
ただ、内部事情とかは、そちらの世界の中でやってほしい。

今のやり取りは、笑えません。
ただひとり、松っちゃんはブレてないですよね。
ちょっとした笑いを交えつつ問題解決に繋げようとする。

宮迫と社長が乳首相撲すれば、すべて解決する。

僕も、そう思うな。
それを笑える世の中であってほしい、と思います。
posted by メタマネ佐藤 at 06:25| Comment(0) | 日記

2019年07月22日

みんなで京アニ作品を見ましょう。

先週起きた、あまりに悲惨な放火殺人事件。
誠実に、懸命に仕事をしていた人を傷つける行為。

あまりにも酷すぎて、許せないなどというレベルでは済まされない。
本来、個人のレベルで何か言うことではないかも、と思っています。
しかし、今日になって、私はこんな風に思いました。

これは、日本のアニメーションという「文化」に対する破壊活動。
すなわち、テロではないかと。

単なる犯罪のレベルでは済まされない。
犯人が、たとえ妄想に支配されていたのだとしても。
これはすでに、凶悪犯罪のレベルではなく。
日本の文化に対する破壊活動なのだと。
社会に対する破壊活動なのだと。
そう感じたのです。

だから、日本に生きる者の1人として。
京アニ作品を見る。
京アニ作品を買う。
そうして、文化を守る活動に貢献する。

そういう一人一人の一歩が大切なのではないかと思いました。

私は、恥ずかしながら、これまで京都アニメーションの作品を、あまり見る機会がなかったのですが。
アニメーションという文化を守るには、一人一人が、その価値を知ることから始めることが大切だと思うんです。

だから、みんなで京アニ作品を見ましょう。

彼らが伝えたいものは、ひどい事件ではなく。
作品の中にあるはずだからです。

何度も言います。
暴力に屈してはいけない。
いまこそ、皆で日本の文化を応援しましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 18:43| Comment(0) | 日記

2019年07月20日

アポロ11号。



宇宙船、アポロ11号が月面着陸して、今年で50年の節目を迎えるのだそうです。
それを記念して、アームストロング船長の宇宙服がスミソニアン航空宇宙博物館に展示されるのだとか。

アメリカ人にとって月面着陸は、フロンティアスピリッツの象徴的な出来事として、伝説になっている、というわけです。

これは、別のところで聞いた話ですが。
アポロ11号に用いられたコンピューターの性能は、初代ファミコン以下だったのだとか。
それを、人々の勇気と知恵で補い、人類史に残る偉業を成し遂げた。
そう考えると、本当にすごいですよね。

人の命は有限であり。
その時間をどう使うかは一人ひとりに委ねられています。

その限られた時間を、意義のあることに費やすのか。
だらだらと過ごすのか。
誰かの足を引っ張るために使うのか。
それを決めるのは自分自身です。

世の中に光を照らすような、偉業を成し遂げることはできなくとも。
身近な人の光になることはできるかもしれない。

光があれば、影もできます。
世の中、ままならぬものと思いますが。
せめて心がけとして、誰かの足元を照らす、わずかな光であるように。

おごらず、かといって卑下せず。
有限の人生の「一歩」を、日々刻んでいきましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 20:31| Comment(0) | 日記

2019年07月07日

結論延期能力。

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だいぶ以前に見たテレビの話で。
心理学の植木理恵先生が、「結論延期能力」という話をされていました。

それを聞いた時、「へぇ〜、それも能力って言うんだな」と妙に感銘を受けたのです。
それから少し時間は経ちましたけども、私なりにその時感じたことを、まとめてみようと思います。

これは、読んで字のごとく「結論を曖昧なまま、先延ばしにできる」という心の力なのです。

一言で言えば、優柔不断とも言えます。
ですから対義語として考えると、即断即決ですね。
「白黒はっきりつけないと気が済まない」とか、「もやもやしたままでは耐えられない」といった人は、植木先生曰く“曖昧さへの耐性が低い”、ということになるそうです。

一見、「それっていい加減なだけじゃないの?」とも思いますが。
実は、これは心理学的に大変重要な意味を持っているそうなのです。

その理由はいたって明確。
世の中や社会に起きる出来事のほとんどは、白黒はっきりつけられるようなものではないから。
なんでも即決するよりも、慎重に考えた方がいい場面もありますよね。
ビジネスであれば、速やかな決断力が重要な場面も多いと思いますが、私生活においてはなんでも結論を出すのがよい、というものでもありませんよね。
とくに、家族の関係や、夫婦間の問題なんてのは。

このことから、曖昧さへの耐性が低いと、人間関係に良くない影響を与えるだけでなく、うつ病など、精神疾患の発症率が高くなってしまう、とのことでした。
あるいは、失敗や間違いを恐れるため、否定的な決断ばかりを下してしまうこともある、と。

なにより、あらゆる物事は、その場ではっきり断じなくとも、時間が解決してくれる場合もある。
情況が変われば、解決の糸口が見つかる場合もある。

そういったことから、その人の持つ「力」として、結論を先延ばしできるのも一つの能力と考えられるわけです。

ただ、もちろん優柔不断が全て正しい、ということではなくて。
心の健康や、強さという観点から見ると重要な要素だ、ということのよう。

みなさん、自分に照らしてみたとき、どんな風に感じられますか?
posted by メタマネ佐藤 at 07:13| Comment(0) | 日記

2019年06月25日

正見と邪見。

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仏教には、物事を正しく見る「正見」という教えがあります。
まずは、ちょっとしたお話から。

室町時代、蓮如という有名なお坊さんがいました。
ある日のこと。

とんちで有名な一休さんが、立派な松の木の前に立て札をしました。
「この松が、まっすぐ見えたものには金一貫を与える。」

松の木は、ぐねぐねと曲がりくねっていて、どんな角度から見てもまっすぐには見えません。
見物客は、色々な角度に傾けて見たり、近くの木や建物によじ登ったりして、なんとかまっすぐに見える方法を探しました。
それでも、どうやってもまっすぐに見ることはできなかったのです。

そこに通りがかった蓮如上人。
「なんだ、そんなことか」と、こともなげに言いました。

「私がまっすぐに見てあげよう。
正直に、この松はねじ曲がっている、と言えばいいんだよ。
曲がっているものを、素直に曲がっていると見ることを“まっすぐ見る”と言うのだ」と説明したのです。
「白いものは白、黒いものは黒と、ありのままに見るのが正しい見方であり、これを正見という。
曲がった松を、なんとかまっすぐ見えるように見ようとするのは曲がった見方であり、これを邪見というのだ」

仏教の思想には、この「物事を正しく見る」という正見の概念があります。
要するに、物事をありのまま脚色せずに見る、ということなのですが。

この発想は、私達の仕事でも大切な、アセスメントの基本に通じる、と思います。

ケアマネとして利用者の方とお話しするとき。
冷静に、客観的に状況判断をしながら先方の話を聞くようにしますが。
それでも、ある程度は自分なりの見方や捉え方の“クセ”というのが出てきます。

「この人はこんな人」
「ここの家族は難しい」
「きっとこれは、こういう意味だろう」
といったように。

悪意はなかったとしても、先回りして補足的な分析を加えて、“こんな人”という像を作り上げてしまうことがある。
人間には多様性があるので、そんな簡単にカテゴリ分けできるものではないはずなのに。
自分の見たいような視点でしか、見えなくなってしまうんですね。

そうなると、自分の作った色眼鏡でしか相手を捉えることができないようになってしまう。
そして、自分がそんな色眼鏡をかけていることには、自分では気付きにくいんです。

これこそが、「邪見」の怖さ。

ですから、自分の見立てに自信を持って、疑問を抱かなくなるのは怖いことだと思います。
その一方で、いつまでも自分の見立てに自信が持てないというのも、それはそれで困りもので。
自信がないでは済まされないのが、この仕事の奥深さでもある、と日々思うのです。

結論。

ちょうどよいバランスで、自分や他人、物事を客観的に「正見」できることが必要なのです。
それは、生涯発達の視点で、自分の「目」を磨き続ける必要があるのかもしれませんね。
posted by メタマネ佐藤 at 01:00| Comment(0) | 日記

2019年05月28日

イヤホンでも違反になる場合。

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車で携帯電話を使っていると、違反になることは皆さんご存知のことと思いますが。
イヤホンを使って会話していても、場合によっては交通違反になることはご存知でしょうか?

それは、携帯電話を操作するために、運転中に携帯電話の画面を注視した場合。
視線が逸れて注意散漫になるので、違反と取られてしまうのです。
これは、カーナビの使用でも同じことが言えます。

なので停車中に、携帯電話は操作しなくてはなりません。
ちなみに、信号待ちなどの間に携帯を操作することは、構わないとされています。

また、両耳にイヤホンをかける行為も違反となります。
運転中に、外から聞こえるクラクションや、緊急車両の接近音などに気づかなかったり、車の異常音に気付きにくくなる、という可能性があるからです。
これと同じ理由で、大音量で音楽を流しながら運転することも、違反になる可能性があるそうです。

細かな点は、都道府県条例や現場の警察官の判断に委ねられることもあるようですが。
運転中は、運転に集中しましょう、ということですね。

急に暑くなりましたし、集中力が散漫にならないように気をつけたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 07:27| Comment(0) | 日記

2019年05月20日

褒める 、叱る。

世の中には、褒めて伸びるタイプと、叱られて伸びるタイプというのがいるそうです。
当たり前のことですけど、叱られるのが好きって人は少ないですから、ほとんどの人は自分を「褒められて伸びるタイプ」と認識しています。

ただ、あきらかな課題がある場合は、「褒める」のみで対処できるものでは無い。
その場合は、それをどう指摘し、認識できるようにするかという“叱り方”が重要となります。

叱られる側からすれば、叱ることと、怒ることにあまり違いを感じないかもしれません。
ただ、大きく違うのは、叱る場合は相手に対する指導の意味を含んでいるのに対し、怒る場合は単純に感情が爆発している、ということです。

指導の意味があるということは、すなわちそこに愛情があるということ。
だからこそ、その気持ちや、指導の主旨が伝わるような「叱り方」を身につけておかねばならない。
そこには「どうしてちゃんとできないんだ」という“苛立ち”が含まれることが多いですから、叱る方には相当な感情のコントロールが求められることになるわけです。

そもそも指導が成り立つには、指導する側、される側という信頼関係がなければ成り立たない。
「私のいうことを聞きなさい」という姿勢では、人は動かないのです。
山本五十六は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という名言を残しています。
人に「動いてもらう」ことの難しさは、たしかにそのようなものであると思います。

ですから、上司部下という関係であっても、そもそも上司が部下に侮られているようでは、指導の関係は成り立たない。
仕事の関係と割り切って接するならば、業務上の指示は可能ですが、指導を受けたり、ましてや「叱られる」ことを容認できる関係性には到達しない、と考えられるのです。

つまり、それだけ「叱る」というのは難しい。
さらに言えば、叱られるばかりしていると、言いたいことも言えなくなって、萎縮してしまうようになります。
そうなると、仕事自体が成り立たなくなる危険性も出てきます。

一方、褒められる体験というのは、こころの報酬です。
褒められて、のびのび行動するからこそ、良いパフォーマンスが発揮できるようになる、とも言える。

いずれにしても、バランスよく「褒める」と「叱る」を使い分けることが重要なのですが。
そもそも、自分が人を褒めたり、叱ったりできるような人間なのか、という部分には疑問が残ります。
山本五十六のような、稀有な人物が上司になるわけではありませんから。

それでも。
自分に求められる役割がある以上、その責任には誠実でありたい。

そんな気持ちから、この記事を書いてみました。
posted by メタマネ佐藤 at 06:48| Comment(0) | 日記

2019年05月13日

ひらめきの価値。

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今日はニュースから引用させていただきます。
とある福祉作業所の、一人の職員のひらめきから生まれたエピソードです。

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大阪市住吉区で、障害者が手作りした雑貨を扱うセレクトショップ「らふら」(社会福祉法人ライフサポート協会)では、ファーストリテイリングや繊維メーカーのクラボウ、ファスナーを手がけるYKK、デザイナーなどを育成する大阪モード学園、ミシンを扱うブラザー販売の協力を得ながら、3月からミニトートバッグを販売しています。

3月時点での制作者は、同法人が運営する生活訓練「つみき」の利用者で、軽度知的障害のある20代女性1人。もともと手芸が趣味で、「楽しい」と言いながら製作しているといいます。現在は少しずつ作り手を増やしながら商品作りをしています。

このバッグ、何がすごいかというと、材料費をほぼかけずに製作できているという点です。
バッグのデザインは大阪モード学園ファッションデザイン学科の学生が授業で考え、布地はユニクロの店舗で発生するハギレ、クラボウのサンプル反を無償提供してもらっています。また、YKKからはファスナーを、ブラザー販売からは縫製に使うミシン3台の無償提供を受けました。

なぜ大手企業などの協力を得た商品ができたのか、プロジェクトの中心になった法人職員で「らふら」店員の米田麻希さんに聞きました。

米田さんは学生時代、ユニクロでアルバイトをした経験があります。裾上げ後のハギレが廃棄されていることを知り、生かすことはできないかと考えていました。社会人になり、ライフサポート協会の法人職員となってからは、法人の独自商品を開発し、売り上げを伸ばすことで、法人内の作業所で働く利用者の工賃を上げることにつなげられるのではないかと考えるようになったといいます。

2017年5月、米田さんの経験と思いを法人内で共有すると、「ユニクロにメールしてみよう」と、ユニクロを運営するファーストリテイリングに早速連絡することになりました。実はファーストリテイリング、これまでも海外でハギレを使ったプロジェクトを展開してたこともあり、日本でも実施したいと考えていました。
両者の思いが合致し、その年の11月には東京のファーストリテイリング本社でプレゼンし、「プロジェクトへの想いだけでなく、目的や販売拠点を持ち、計画を立てている。是非協力させていただきたい」(ファーストリテイリング)と、とんとん拍子で事は進み、同社が以前からCSR活動に関する意見交換を定期的に行っていたブラザー販売やYKKと、らふらをつなぎ、プロジェクトの輪が広がっていきました。

ここで出てきた課題が「ものはそろったけど、デザインや縫製はどうしよう」。

「ユニクロは全国で展開しているし、福祉作業所も全国にある……。そうだ!全国展開をしている服飾系の専門学校に声をかければ、このプロジェクトがいつか全国的な広がりをみせるかもしれない!」
 
プロジェクトに関わっている人たちの総意が固まり、2018年4月にはモード学園に話を持ち込みました。ファッションデザイン学科の学生およそ40人の前で話をすると、デザイン案がなんと90近くあがってきました。
法人職員の間では、「全部いい!」となったのですが、コスト面などでファーストリテイリングからのアドバイスを受け、一次審査で13案まで絞られました。その後、法人職員や、「らふら」とゆかりのある子育て世代の意見を聞きながら5案にまで絞り、その後二次審査を経て3案を採用することになりました。

現在販売しているミニトートは、3案うちの1つで、残り2案はYKKから提供を受けているファスナーを使う予定だといいます。
今後は商品作りの担い手を増やすべく、法人内にある障害者活動センター「オガリ作業所」(生活介護・就労継続支援B型)の利用者にも関わってもらう予定です。
ファーストリテイリングの担当者は、「ユニクロの店舗から直接地域の施設の方にハギレをお届けする事で地域に貢献できれば、という思いで参加し、障害者工賃アップに今回の活動が良い影響を与えることができるのであれば、嬉しく思います」と話しています。

米田さんは「大阪は商売の町なのに障害者の工賃は低いまま。すぐに効果がでなくても、売り上げが積み上がった結果、工賃アップに繫げたい」と期待しています。

商品は1980円(税込み)で販売されていますが、現在在庫がない状態。在庫が出次第、「らふら」のSNSで告知する予定だといいます。
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購入は社会福祉法人ライフサポート協会「らふら」(大阪市住吉区帝塚山東5ー8−7)まで。

2019年05月12日

ぬりえ楽しい(笑)

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最近、ぬりえのアプリにハマってます。
使う色は決まってるんですが。
ぽちぽちやってたら、ついついやってしまいまして。

気付けばけっこうな時間が経過してしまうという。
ま、暇つぶしに最適ですね。

前から思ってたんですが、僕のブログって字が多くて理屈っぽいですよね。
なんか挿絵みたいなもんが無いかなーって思ってたので、暇つぶしと脳トレを兼ねて、ときどきぬりえの画像を添付してみたいと思います。
テーマに沿ったものじゃ無いかもしれませんけど、まぁ、べつにいいか(笑)

楽しいですよ、皆さんも是非どうぞ〜。
posted by メタマネ佐藤 at 15:03| Comment(0) | 日記

2019年05月10日

うったて。

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ついこの前まで知らなかったのですが。
書道でつかう「うったて」という言葉は岡山弁なのだそうですね。

岡山県人以外の人は、「なんのこと?」という感じだと思うのですが。
岡山県人にとっては、「いや、共通言語でしょ」と思った人も多いのではないでしょうか。

「うったて」というのは、書道の授業で先生から普通に習います。
横棒一本書く時に、グッとひと押し。
そんなところから、肝心要のポイントのことを「うったて」と言ったりもします。

あまりに普通に使っていたので、思いもよりませんでしたが。
他県ではまったくこの「うったて」を使わない、というではありませんか。

知ってるつもりで、知らないことってあるもんだなぁ。
当たり前のつもりで、当たり前でないことってあるもんだなぁ。

そんな新鮮な驚きを感じました。

ちなみに、他県では「おし」とか言うそうですね。
ほかにも、いろんな呼び名があるのかもしれません。
ご存知の方がおられたら、教えて下さいね。
posted by メタマネ佐藤 at 06:40| Comment(0) | 日記

2019年05月05日

瀬戸芸2019 開幕。

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今年は3年に一度の瀬戸内国際芸術祭。
僕は、この会期中くらいにしか島には行かないんだけど。
休みのたびに、行ける時にはできるだけ通って、のんびり芸術を楽しんでます。

写真は地元岡山の犬島ですね。
ゴールデンウィークは人手がえげつないだろうと思っていたので、今回の瀬戸芸はゆっくりめの参加スタートです。

若い頃は、あんまり興味なかったんだけど。
最近は美術館とか、お寺さんや神社巡りなんかもいいもんだ、と楽しく思うようになってきて。

とくにこの瀬戸芸は、地元開催ってこともあり、お休みの日には気軽に島通いを楽しんでいます。
芸術作品もいいけど。
どの島にも、いろんな物語があったりして。
人の営みってすごいなって思うんです。

島の暮らしは、明らかに不便なように思うけど。
いろんな事情があって、今はほとんど人がいなくなってしまった島もあるけれど。
芸術祭が開かれるようになってから、改めて活気付いて、人が増えたってところもあるんですよね。

だから、芸術だけでなく、島を楽しんでるって感じかな。
日常から切り離されて、いい意味で気持ちのリセットにもなります。
そんな感じで、のんびり過ごしてる人も多いように見えますね。

外国からのお客様もたくさんいらっしゃいますが、地元の人でも「あまり芸術には興味ない」って人も多いんじゃないかと思います。
地域おこしの意味もありますから、行ってみたい人は、ぜひメタマネにお声掛けを。
日にちが合えば、ワリカンで小豆島に行きましょう。

レンタカー借りて回りたいもので(笑)
posted by メタマネ佐藤 at 15:53| Comment(0) | 日記

2019年05月03日

平成から令和へ。

令和がはじまりましたね。
一つの時代が終わり、新たな歴史がはじまった。

お札の肖像画も変わるんですね。
だんだん、最近の人が肖像画になるんですね。

平成の時代は、たびたび大きな災害に見舞われ、天皇陛下が被災地訪問される姿が印象的でした。
振り返りの特番を見ていると、「あったあった」となつかしく思うことが多く。
やはり30年というのは、長い年月なんだなぁ、と実感させられたり。

思えば、平成の時代に入ったのは、僕が中学3年の時でした。
受験前だけど、あんまり勉強には身が入ってなかったなぁ。
やりたいことも特になかったし。

それから30年あまり。
いいおじさんになってしまったけど。
僕の中身はあんまり変わって無いような気もします。
あいかわらず、なにもかもいい加減なまま。

でも、やりたいことや、日々の生活に充実感を感じることは増えました。
いっぱい失敗したけど、やり直したいとは思わない。
嫌なこともたくさんあるけど、逃げ出したいとも思わない。

でも、そういうネガティブな気持ちも。
新しい時代を迎えるにあたり。

全てプラスに転換していけますように。
posted by メタマネ佐藤 at 18:27| Comment(0) | 日記

2019年05月02日

憶測と忖度。

憶測とは、「物事の事情や相手の気持ちなどを、確かな根拠もなくいい加減に推し量ること」を言います。
根拠もなく、自分勝手に推測してしまうので、良い意味では使われない言葉です。

それと、なんとなく似た意味に使われる忖度(そんたく)。

最近、忖度という言葉が、悪い使われ方になってますが。
本来、忖度とは「相手が言葉に出せない本音を察すること」を意味します。
つまり「察する」という、和を尊ぶ日本人らしい概念。
森友問題以降、よくない意味でつかわれるようになってしまいましたけどね。

憶測と忖度。

意味は全く違いますが、このふたつの概念が影響しているのだろうと感じる“よくない言葉”が、最近ネット上で踊っています。
それは「上級国民」という呼称。

悲惨な自動車事故を起こした高齢の加害者が、元高級官僚だと判明した後に。
政府関係者の忖度により、都合の悪い顔写真や個人情報を、ネットから削除した。
マスコミも忖度し、容疑者ではなく院長と呼称している。
これが、「上級国民だから逮捕されない」という憶測となり。
ネットニュースになって「上級国民」という言葉を拡散してしまっている。

私は、こういう考え方が「差別」の根っこだと思うのです。
そもそも人間には上級も下級もないのですから。

とはいえ、資本主義社会には、明らかに持つ者と持たざる者が存在する。
社会の中で、馴染める者と馴染めない者を生み出す。
経済や幸福度の格差に、憶測や忖度や承認欲求が加わって、「上級国民」という差別意識を形成する。

もともとインターネットには、事実関係の明らかでない、憶測に基づく情報が散乱しています。
SNSとなると、さらに好き勝手な憶測が飛び交って、無法地帯と化しています。

憶測はさらなる憶測を呼び。
人の気持ちを勝手に忖度し。
事実をどんどん都合よく捻じ曲げていく。
自らの主張の正しさを誇示し、承認欲求を満たす。

僕は思います。

いろんな憶測も忖度も自由だと思うけど。
差別という毒をばらまくのだけは、ご勘弁願いたい。
posted by メタマネ佐藤 at 14:00| Comment(0) | 日記

2019年04月25日

怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。

怒りは無謀に始まり 後悔に終わる。
(ブッダの言葉より)

怒りの感情に任せて、たとえば大きな声で怒鳴ったりすると。
たいてい良い結果を産みません。

若い頃なら、血気盛んで好ましい、ということになるのかもしれませんが。
ある程度年齢を重ねてくると、感情的になるのはみっともない感じがします。

ただ、怒りを覚えることというのは。
歳をとったからといって、減るわけではないように思います。

私もそれなりに歳をとって、それなりの立場や役割がありますから、理不尽だと思うことも、それなりに経験するようになりました。
おそらく、怒りを感じる場面というのは、若い頃より増えているように思います。

ただ、それでも、怒りを直接ぶつけるようなことは減りました。
この言葉にもあるように、怒りをぶつけたとしても、良い結果をもたらすことは少ない、という経験を、重ねてきたからなのかもしれません。

それでも時には、口から溶岩のような怒りの感情が噴出してしまうことがあって。
そんな時は、その当事者でなく、まわりの近しい人に愚痴をこぼしてしまったりして。
あとから「申し訳なかったな…」と思ったりします。

ブッダの言葉にもあるように。
多くの場合、怒りの感情は、後先考えずに吹き出して、冷静になってから考えてみると、なにも良い結果を生まなかった、ということがほとんどです。

ただ、その感情の発露は、大きなエネルギー源でもあり。
うまくコントロールできれば、力強い推進力、原動力ともなります。

だからこそ。
感情の勢いを、無謀にぶつけるのではなく。
前向きな推進力に転換していくことが必要で。
感情に流されるのではなく、具体的な行動に転換する。

そうすれば、「あんなことがあったけど、自分の勉強になっていた」と振り返ることもできるはず。

とりあえず、6つ数えて、気持ちを落ち着けるトレーニングから始めてみましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 00:33| Comment(0) | 日記

2019年04月15日

ふりかえり。

きょうは、ブログを長らくお休みしていた訳について、振り返ります。

先日、休載していたのは「なんとなく」と書きました。
それは、たしかにその通りなのですが。
自分としては、それなりに考えもあってのことでした。

そこで今日は、その「なんとなく」を棚卸し。

もともと私がブログを一生懸命綴っていた訳は。
書くことが思考を鍛えるトレーニングになるな、と思ったことと。
私の考えに共感してくれるひとを増やしたい、というふたつの面がありました。

たとえば、一緒に働いている方に、自分の考えを知ってほしい、とか。
僕の腹の中がわかれば、一緒に安心して働けるんじゃないか、ということも考えたりしました。

いずれも、一定の効果はあったと思うのですが。
自分の内面にとっては、良い面ばかりではないように思うようになりました。

どんなことかというと。

文章を書くことで、知らない間に自我が肥大して頑固になってしまうこと。
もう一つは、外面ばかり気にして、良いことばかり書いてしまうことです。

ひとつめの「自我の肥大」。
自分ではなかなか気づかないものですが。
過去の自分を振り返り、今の自分に鑑みると、明らかに増長していたな、と思うのです。

自分など、そもそも何者でもない。
なのに、それなりに役職を経験したり、役割を期待されたりすると、自分で自分を「できる人」のように勘違いしてしまう。

思い上がってはいけない、と常々思ってはいたのですが。
自分の書いたことを、時間が経って振り返って見ると、そこには増長した醜い自分を見つけてしまう。

書くことは、考えをまとめて強化する、つまり思考のトレーニングには最適だと思うのですが。
知らない間に“偉そうな自分”を作り上げてしまう。
少なくとも、私は自分でそれを感じましたので、しばらく自分を見つめ直す時間が必要だ、と考えたのです。

次に、外面ばかりを気にしてしまう、ということ。

人間には承認欲求があります。
自分の考えを読んでもらって、共感してもらえると気持ち良い。
反面、否定されることはとても痛くて、わざわざ時間を費やしてまで人に何かを伝えようとは思わなくなってしまう。
だから、当たり障りのないことばかりを述べてしまう。

つまり、素直な気持ちは表現できないのです。
そうすると何のために時間をかけて文章を推敲しているのか、わからなくなってくる。
なんのために労力を割いているか、意味を感じなくなるのです。

いずれも、決定的ななにか、というわけではないのですが。
自分を見つめ直す時間が欲しいな、と。
そんな風に感じました。

また、仕事に専念する時間が必要だ、と思いました。
ブログは、もともと業務時間外に書いてましたから、そもそもあまり影響は無いのですけど。
それでも、それなりに労力はかかりますし。
自分の時間が削られますので。

そんなわけで、しばらく時間を置いたわけです。
自分を見つめ直す、というか。
自分が何者でも無いことを思い出す、という方が正しいかもしれません。

山本有三の著書に「路傍の石」という本があります。
その意味は「道端に転がる石ころのようなもの」ということです。
まぁ、そのへんの平凡な、つまらんものということですね。

しかし、石はただ転がっているわけではなく。
悠久の時を経て、今に至る。
人の一生など、はるかに超える歴史が詰まっているわけですね。
そう考えると、つまらなく見えるものにも意味が宿る、と気づく。
それでも、ただの石ころには変わりないのです。

僕は、そんな風に生きたい、と思うのです。
そう思うのも、自分自身が俗にまみれた人間だからなのでしょう。

もっと誠実な人間になりたい。
最近は、特にそう思うようになりました。
posted by メタマネ佐藤 at 06:43| Comment(0) | 日記

2019年04月04日

大変ご無沙汰しております。

実にご無沙汰しております、メタマネです。

半年以上ぴったりと更新が途絶えておりました。
そんなことで、なかには死亡説や失踪説が浮上していたようですが(笑)。

どっこい生きてるシャツの中、でございます。
これわかる人は中高年以上でしょうね(笑)

更新が当分なかったことについては、それなりに思うところもございまして。
それは、また改めて書かせてもらおうと思うのですけども。

まぁ、自分自身が異動になって環境が変わったこともあって。
なんとなく、忙しかったり。
正直、ネタがなかったり。

あとは、私の性格として。

やるときにはやる。
やらないときにはやらない。

そんな感じでございまして。

要するに、なんとなく、で随分時間が経過してしまった、と。
そんな感じなんですね。

ところが。

どうも、そうやって「まぁいっか」と思っていたのですが。
自分でも、思っていた以上に読んでくださっていたかたはおられたようで。
そんなマニアックな方々には、随分なご心配をおかけしていたようで。

なんどか「大丈夫ですか?」というお声掛けをいただきました。
心配してコメントを下さった方もいらっしゃいました。

…ありがとうございます。

メタマネは、元気でございます。
私の拙い文章でも、そうやって楽しみにしてくださる方がおられるのは、とてもありがたいことです。

平成が終わり、令和を迎えるにあたり。
細々とですが、時代の片隅で、メタマネブログもこっそり再開。

そんなわけで、今後も少しずつですが、気の向いたときには時々雑感をアップしていこうと思います。

これからも、時々メタマネブログを覗きにきていただけると嬉しいです。
posted by メタマネ佐藤 at 00:04| Comment(0) | 日記

2018年05月23日

責任の所在。

先日、アメリカンフットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に行ったタックルが、監督の指示によるものだったのかどうか、ということが大きな話題になってますね。
これまで会見に臨んできた大学の関係者の話では、「全て私の責任です」とは言うものの、具体的に危険なタックルを指示したのかどうか、ということについては明言を避けていました。

それに対して。

昨日、実際に危険なタックルを行った選手自らが、顔を晒して、その経緯を説明されました。
…なんというか、たまらない気持ちになりましたね。
淡々と、誠実に語る様子に、身につまされました。

本当に酷い話だと思います。
相手に怪我をさせるしかないような、そして「もうアメフトはやらない」と言わせるまで若者を追い込んでおいて、平気な顔でいる監督やコーチ。

まぁ、平気ではないのかもしれませんが。
それにしても許せない話だと思いました。

前監督は、「全て自分の責任だ」などと言いながら。
いまだに責任逃れのコメントを出し続けている大学関係者。
その言葉を要約すれば、「選手の捉え方が悪い」ってことでしかありませんから。

あのタックル。
ある意味殺人未遂とも言える悪質なもの。
ひょっとしたら、頸損などで、一生の障害を残す可能性だってあるほどの、危険なものだったはず。

「やるしかない」ところまで、人を追い詰めておきながら。
「もう二度とアメフトはやらない」と全国に向けて言わせるまで、人を追い詰めておきながら。

いい大人が、何も言わないつもりなのか。
そのまま、大学に留まり続けるつもりなのか。
それで、チームを運営するものとしての、教育機関としての責任を果たしたと言えるのか。

選手1人を、会見に臨ませるほど追い詰めた、大学関係者の責任は重い、と言わざるを得ません。

「全て私の責任です」というならば。
「そこまで選手の追い込んだ」という事実に対して、誠実にならなくてはいけない。

勇気を持って会見に臨んだ選手の姿勢に、敬意を表するとともに。
彼が今後、これ以上不利益を被ることがないように、祈るばかりです。
posted by メタマネ佐藤 at 06:46| Comment(2) | 日記

2018年05月15日

説教、昔話、自慢話。

年をとってやっちゃいけないのは「説教」と「昔話」と「自慢話」。
ーー高田純次

テキトー男、高田純次さん。
しかし、この言葉からは、大人の思慮分別を感じますね。

僕は、高田さんのこの言葉、大好きなんです。

常々思っておりますが。
「最近の若い奴は」というのは、ろくな言葉じゃない。
だって、若くてもしっかりしてる人は、山ほどいますから。
おたくの若い頃はどうだったんだよ、と言ってやりたい。

そっから言うと、高田さんは粋ですね。
…なんか江戸っ子みたいな感じですけど。

そこで今日は、「説教」「昔話」「自慢話」について、考えてみましょう。

まず「説教」。
僕は、これは全て悪いとは思いません。
だって、熟練者が若い人を育てるのは、必要なことですから。
学校の勉強では教わらない“社会”のあり方とか渡り方を、自分なりの言葉で伝えるのは、とても重要な「経験の口伝」だと思うんです。
悪いのは、年長者から若年者を支配せんとするための「説教」。
あるいは、目的なくダラダラ喋り続ける、聞いてほしいだけの「説教」です。
「説教」は、言葉の通り「説いて教え」ること。
聞いてる側が苦痛に感じるような「説教」は、教え方がヘタってこと。
つまり、愛情のない説教は恥ずかしい、と僕は思うのです。

次に「昔話」。
「昔は良かった…」みたいな話は、たしかに聞いてて気持ちいいものではないかもしれません。
しかし、過去があってこそ、今があるわけですから、これも無駄なはずがない。
歴史を語るのは必要なことですが、僕はそこにこだわり続けるのがよくないんだと思います。
前はこうだった、うちではずっとこうしてきた。
そう言われたら、新しいことや、改善につながることも、受け入れる余地がなくなってしまいます。
まぁ、平たく言えば頑固者ってことですかね。

最後に「自慢話」。
これは、ホントにつまらないですね。
なに過去の栄光にしがみついてんだよ、と思う。
酒でも入ってたら、仕方ないかもしれんけど。
そもそも自慢話なんてのは、自分で語るものでもないし。
人から認められてこそ、だし。
そこにこだわっている時点で、器の小ささを露呈してしまっているようなものですから。
自慢したくもなるときは、誰にだってあるかもしれませんが。
とにかく、かっこ悪い。
年長者の場合は、特に見るに耐えない感じになります。

高田さんの言葉や態度から感じるのは、とにかくそんなつまらない“こだわり”を捨てること。
それをテキトー男として実践しているのだとしたら、こんなにカッコイイ大人も、なかなかいないんじゃないか、と思ったりいたします。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:40| Comment(0) | 日記

2018年05月05日

社会の寛容さと具体的な取り組みを。

最近、ある芸能人が起こした、アルコールと強制わいせつに関する話題がよく取り上げられます。
起きたことは、問題というより事件であり、その是非は言うまでもないことです。
ただ、ニュースを見ていて、ものすごく気になることがあるので、やや取り上げにくい話題ではあるのですが、私見を述べたいと思います。

まず、全体の印象として。
「メンバー」は、アルコール依存症なのだろうな、と感じます。
依存症には、嗜癖や薬物としてのアルコールの特徴、心理的要因や環境など、さまざまな側面がありますが。
彼の場合、嗜好を問題ある飲酒行動のレベルまで強めたのは、世間からの「見られ方」を、必要以上に求められ続ける立場にあったからではないか、というのが僕の見解です。

あの事務所の方には、時々こんな問題が見え隠れすることがあります。
僕は、その「見られ方」や「見せ方」へのこだわりが、とても大きな要因であるように感じるのです。

簡単に言えば、自分を表に出せない状況は、継続したストレスを抱えてしまう。
自分を解放できる対象に依存するようになる。
その対象として、手軽に手に入るお酒はうってつけ。

お酒が好きでも、「見られ方」が大事な仕事だから、居酒屋では気持ちよく飲めない。
泥酔したらスキャンダルで人生棒にふるもんね。
だから家飲み。
気がすむまで飲んだら、あとは寝るだけ。
止める人がいなければ、だんだんと量は増える。
普段はものすごくいい人なのに、お酒を飲むとリミッターが外れて、人が変わる。
自分では、酔っている時の自分の異常に気づけない。
そうやっていったんハマると、自力で抜け出すことは不可能。
彼の周りの人は気になってはいても、止められない、助けを求めることもできない。
ここでも「見られ方」が悪影響。
そして、事件につながった…。
…という感じではないかと思います。
僕の思い込みかもしれませんけどね。

依存症は、病気です。
公共の電波で、宣伝するようなものではそもそもありませんが、本人にとっては、受容がまずは大切となる、“否認の病”でもある。
「まさか自分がなるわけない」という否認が治療を遅らせ、回復を長引かせたり、重症化させたりするわけです。
こういうことは、認知症でも見られますが。
依存症には、特にそういったスティグマがありますよね。

社会的にも広く知られる存在である彼が。
後ろ指を指されながら、これから先の長い人生を生きていくには、どんな支えが必要になるだろう。
アルコールに頼らず、人の支えによって回復できるものなのだろうか。
そんなふうに思う。

つまり、「なぜ依存してしまうのか」の本質を解決しなくてはならないことと、回復を助ける“人の輪”が欠かせない、と僕は思うのです。

目を真っ赤に腫らして会見に臨み、衆人環視の中で誠実に語ろうとする「メンバー」の姿勢は、僕は立派だと思いました。
なのに、「戻る場所があるのなら…」という言葉を、仲間からはっきり否定されると、正直立っていられないし、立ち上がれないと思う。
大人としては正しい対応なのだと思いますけど、彼の回復を支えるような立場はとらないのだろうか、と少し疑問に思えました。

たぶん、男の友情みたいなものは、表に出すものじゃないし。
突き放す優しさ、あるいは厳しさが必要、ということも、あると思うのです。
テレビ向きのコメントも、必要でしょう。
彼らの仕事は、社会からの厳しい品定めを、たえず受け続ける仕事でもありますから。
画面に映らないところで、支えになっていかれるだろうと、僕は信じていますけどね。

さて、本題。

この問題を通じて僕が思うのは、社会全体の寛容さ、ということです。
彼が本当に依存症なのか、ということも、ここは切り離して考えます。

人間には色々な“顔”がある。
心理学的には、ペルソナ(仮面)と呼びますが。
「メンバー」の行動が大きなニュースになるのは、アイドルというペルソナに対する、社会からの期待や信託が、高すぎるために起きていることでもあります。
ペルソナは、あくまで仮面で、表層的な役割に過ぎないのに。

身近なところで例えるなら、医者や看護師、介護職だってペルソナな訳です。
本音をさらけ出して仕事するのではなくて、優しく受容的態度で接するという「仮面」をかぶって、僕らは社会からの要請に応えようとします。
なので、時々本能むき出しの看護師さんとかに出会うと、「こえ〜〜っ」と思ったりしますけどね(笑)。

で、アメリカの芸能人を例えに出すのも変ですが。
けっこうゴシップはヒドイし、めちゃくちゃやってますよね。
それなのに、仕事が良かったら、それなりに許されちゃう、みたいな風土がある。
あの国というのは、自由であり、競争が厳しくもあるけど、失敗に対しては本当に寛容だし、そこが羨ましいな、と思うところでもある。

だって、芸能人だって普通の人間なんですから。
心のバランスを崩すことだってあるだろうし、むしろ一般人より精神の安定を維持するのは、よほど大変なはず。
そこで、精神医学や心理学が発展し、社会としてもある程度それを受容する「懐の深さ」がある。
これ、精神障害とノーマライゼーションを考える上では、重要なことですよ。

翻って、我が国の場合。
なんだか器が小さいよね…。
規範を重んじるのが、日本人の良いところでもあるのは、確かだと思うんですが…。

で、この問題を社会的側面から見た場合。

あんまり厳しい「あり方」や「見られ方」ばかり求めるのは人権侵害だと、僕は思うんです。

本音をさらけ出して、テレビの前で泣いている人を、さらに叩くという神経が僕にはわからない。
酷い目にあった当事者が怒るのは当たり前だし、それでいいんです。
でも、今騒いでる人は、「そんな人だとは思わなかった」ってだけじゃないですかね。
関係ないやつは黙ってろ、と思う。
…あ、僕も無関係ですけどね。

で、その「あり方」や「見られ方」が、依存症の問題とも繋がってるし、引きこもりや精神を病む人の増加に繋がる。
社会のあり方の病理じゃないのか、というのが僕の本当に言いたいことなんです。

日本社会というのは、本当に“ちまちま”してる、と思う。
その「小ささ」が、偏見や差別の土台になるし。
障害者に対する意識の壁や偏見を生み出すものとも、根を等しくする。

だからこそ。
この問題を考察することで、社会の寛容さを問いたい。
そんな風に思いました。

あとは、何ができるか…なんだけど。
長くなったので、このへんで。
posted by メタマネ佐藤 at 08:19| Comment(0) | 日記