2017年12月04日

自分に関係ないことはない。

「自分には関係ない」。

この考え方に、時々出会うことがあります。
その殻を破るにはどうすればよいのか。
けっこう悩みます。

最近読んだ本の中に、まさに私のこの悩みにぴったり答えてくれるような話を見つけました。
以下、松浦弥太郎さんの本から引用します。

ーーーーーー
「自分に関係ないことはない」

道端でも公園でも、そこを「自分の庭」だと思えば、誰もゴミを捨てないでしょう。
せっかく植えてある花壇の花を盗んだりもしません。

会社も自分の部屋だと思えば、散らかっていたらすぐ片付けます。
窓が汚れていたら、拭くでしょう。
当たり前の話ですが、家の中では全部が自分に関係しています。
しかし、忘れてならないのは、外に出ても同じように「自分もそこにあるすべてに関わっている」ということ。

「私には、いっさい関係ありません」という態度で、公共の場や会社で過ごしている人がいますが、愚かな間違いです。
どんな人でも外に一歩足を踏み出したとたん、そこに何かの関係が生まれ、同時に責任も生じます。
まるで透明なカプセルに閉じこもって移動するみたいに、人と関わらずに公共の場に出ることは不可能なのですから。

それなのに、世の中は「関係のない病」が溢れています。
子供もそれを真似しています。
「自分には関係ないから、どうなろうと大丈夫。関わらなければ自分は安全」

そう思っているかもしれませんが、もし「どうかなったら」、あなたも無関係ではいられません。
自分だけが安全な世界など、この世のどこにもないのです。

思い違いは、さっさと正すことにしましょう。
自分がすっぽり入ったつもりの、透明なカプセルを壊しましょう。

社会のあれこれを見逃してしまうのは、もったいないし、寂しいことです。
社会と言うのは、もっと大きな環境にもつながっていることを、忘れずに。
ーーーーーー

とてもわかりやすく、明確な捉え方だと思いました。

よく「社会は冷たい」という話を聞きますが、僕は全く逆だと思っています。
たしかに厳しい面はありますが、それはそもそも「生きる」こと自体が厳しいのであって。
社会とは、個々では解決できない大きな課題について、助け合いの精神で乗り越えていくための、あたたかな支え合いのシステムであるはずなのです。
支え合いなのだから、義務を果たさず、権利ばかり主張する人が冷たくあしらわれるのは当たり前だし、そうでなくてはならない。

それは、さらにミニマムに見た「会社」でも、「家族」でも同じこと。
その仕組みを「冷たい」と感じるということは、そこになにかを「求め過ぎ」なのではないでしょうか。
「関わらない」と決めているとしたら、自分が享受する“なにかあたたかなもの”を期待しないことです。

だとしたら、自分のやるべきことは決まっています。

常に、善意で相手に関わること。
なにか、世の中のためになることを考えて行動すること。
そのために、ない知恵を絞ること。
結果や評価はこだわらず、社会の側に任せること。

自分に能力があると過信すると、相手に求め過ぎてしまいます。

食べていけたら、それで十分。

そういう割り切りがまずは必要でしょうし、それができるのも、社会のシステムあればこそ。
自分には関係ないと思わず、すべてのことに当事者として関わっていきましょう。

あくまでも、可能な範囲でね。


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posted by メタマネ佐藤 at 18:26| Comment(0) | 日記

2017年11月27日

人は間違える。

ミスを犯さずに生きていける人はいません。

大きな失敗、小さな失敗、色々あるけれど。
ときには、穴があったら入りたいような、とんでもない間違いを犯してしまうことがあります。

いわゆる“ミス”という程度のものもあれば。
取り返しのつかない汚点を、自分の人生に刻み込んでしまうようなこともある。

どんなに気をつけていたとしても。
一歩も道を間違えずに生きていける人はいないし、たとえ間違えずに生きていけたとしても、それがはたして幸せなことか、と考えると、僕にはそう思えない。

なぜか、間違えたり、苦悩したりしながら、あたふたして生きて行くほうが、人間らしくていいんじゃないか、という気がします。
失敗しないように慎重になりすぎるのは、つまらないように思えてしまうんです。

ちょっと話はそれましたが。
そんなわけで、私の人生は失敗や間違いの連続で。

いろんな人に迷惑をかけました。
申し訳ない、と思うことはたくさんあります。
一番思うのは、やっぱり自分にとって近しい人へ。
でも、なかなかうまく伝えられないんですよね。

ただ、それでも僕は言いたい。
失敗するということは、決して悪いことばかりじゃない、ということを。

そりゃあ、失敗の直後は辛くて消え入りたいくらいの気持ちになりますが。
だからといって、部屋にこもってウジウジして過ごすのは性分に合わない。

「失敗したな」と思っても、それが「勉強になったな」と思えば、「貴重な経験を積んだ」という意味にも捉えられるはずなんです。
そして、そうでなければ人は成長しないものだ、とも思うんです。

あと、思うのは。

間違えて、恥ずかしい思いをしたとしても、そこから目を背けて、逃げてはいけないということ。
逃げるくらいなら、一歩踏み込んで、頭を下げる。
それも、できるだけ早く。
そして間違いは素早く修正する。

たいていのことは、修復できないことはないと思うのですが。
それでも、どうにもならないくらい信用が傷ついてしまうことだってあるでしょう。
そんなときはどうすれば良いか?

…この答えは、私も持ち合わせていません。

まぁ、心配ばかりしたところで、どうなるものでもなし。
とにかくやるだけやってみる、というのが大事かなぁ、と思うのです。

失敗したり、間違えたり。
それも人間らしくて、良いんじゃないですかね。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:38| Comment(0) | 日記

2017年11月21日

アンダースタンド。

下積みしなくちゃ、物事はわかりませんよ。
英語で「理解する」はアンダースタンドですね。
下に立たなきゃわかりません。
(木下サーカス 4代目社長 木下唯志)

岡山が世界に誇るエンターテイメント、木下大サーカス。
浮き沈みの激しいショービジネスの世界で、100年以上続くことから、“奇跡の企業”とも言われます。
常に革新的なショーを展開し、年間120万人を超える観客動員数をキープしていることから、世界三大サーカスの一つとも言われています。

現在の木下唯志社長は4代目。
ご自身も、若い頃は空中ブランコの演者でもありました。
練習中に転落して頸髄を痛め、復帰に相当時間を要したこともあるそうです。

冒頭の言葉は、木下社長の仕事に対する姿勢を表している言葉ですね。

木下社長は、現場に出て、雑用に勤しむことに全く抵抗はないそうです。
猛獣がたくさんいるわけですし、世界中を巨大なテントで回るわけですから、たいへんな労力がかかることは想像に難くありません。
しかし、社長となった現在でも、率先して先頭に立って、雑用をこなしているのだそうです。

そんな木下社長の言葉が、冒頭の「アンダースタンド」。
70歳を目前にした現役社長の口から、こうした言葉が出てくるということに、積み重ねてきた人生の重みを感じます。
まさに率先垂範ですね。

そしてこれは、何にだって言えることですよね。
下積みをしないでいきなりトップに立ってしまうと、現場の苦労が経験できませんから、社員の気持ちがわからない「世間知らず」になってしまう。
これは本当に恥ずかしいことなんですが、誰も指摘なんてしてくれません。
これって、めちゃくちゃカッコ悪いですよね。

そして、コトは“カッコ悪い”だけでは済まない。
職場の人間関係が崩壊したら、組織も崩れます。
一旦崩れた足場を立て直すのは、容易なことではありません。
崩れてグズグズのままやってると、赤字が続いて「店じまい」なんてこともあり得るわけです。

だからこそ現場に立ち、本質を理解する。
サーカスという、ハイリスクかつハイパフォーマンスを求められる世界で、そうした厳しさと責任感を持ち合わせているからこそ、木下大サーカスは100年以上続いてきたのでしょう。

そう考えると、なんとも含蓄のある言葉。
味わい深いです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:50| Comment(0) | 日記

2017年11月15日

当事者意識。

勉強するということは、誰かに教えてもらうことではなく、自ら学ぶことであると思います。
働くということは、働かされることではなく、自ら為すべきことを考えて動くことだと思います。

結局のところ、「やらされたことは身にならない」。

だから、何をするにせよ、どこかの時点で自分のこととして受け止めて、責任を持って取り組む姿勢が必要なのだと思います。

そうでなければ。
なにをしても身に付かない。
僕はそのように思っています。

では、どう学べば良いか。
どう働けば良いか。

社会人になってから学ぶことは、学生時代の学びとは質が異なると思っています。
なぜならば、その学びが、実生活の収入増加に直結するものであることを、理解した上で学ぶことができるからです。

学生時代には、私もそうだったのですが。
社会がどういうものか、頭で考えることはあっても、体験として理解することができません。
ですから、何のために勉強するのか、ということが実感しづらいのです。

逆に言えば、社会人になってからの学びは、実生活に結びつくイメージが持てなければ、やる意味がないと思っています。
それが仕事であれ、趣味であれ。
まぁ、どんなことでも、意味のない学びはない、という言い方もできますが。

さて、最も良い学びのスタイルは、今の仕事にどう活かすのかということです。
その次に、自分の人生にどう生かすのか。

これをさらに具体的に言うと、資格取得などで収入を増やす、とか。
転職を有利に進めるためのスキルを身に付けるといったところでしょうか。
そして時間のある人は、趣味などの人生を豊かにするための学習をする。
つまり、自分のやりたいことをやる。

そして、なにも「学ぶ」ことは、本を開いたり、誰かに教えを請うことだけではない。
日々の業との向き合い方によって学ぶ、というのが、まずは最も重要な点であろうと思います。
ほとんどの人は、どこかの組織に就職するなどしますので、そこで与えられた仕事にどう向き合うか、を考える必要があるでしょう。

中にはいやいや日々の仕事をしている人もいると思いますが。
仕事を選んだのも職場を選んだのも自分です。
この意識を持って、仕事をやらされるのではなくて、自分自身がどう取り組むか、を考えねばなりません。

仕事や職場が合わない、だから転職する。
それは本当によくよく考えた結果かどうか。
自らの人生の時間を、無駄に浪費している、ということではないのか。

自分が選んだ職場で結果を出せない人が、他に移ったからといって、そこで良い結果を出せるかどうかは疑問です。
仕事には段階があり、職業経験は、ある程度の時間と実績を踏まえ、信用を深めて行くものだからです。

繰り返しになりますが、これは何においても言えることで。
自分がこの道で生きていこうと思った瞬間から、自らの力を磨くという義務が生じるのです。

一生のうちに使える時間(労力)は有限です。
だからこそ、無駄なく生きなくてはなりません。
不断の努力、というと大げさですが、少なくとも自分の人生を生きるという、当事者意識を持っているかどうかが重要でしょう。

常に努力する、というのは普通はなかなかできません。
ただ、日々の業務に対する向き合い方や、心構えを変えるということは、気付きがあれば誰でもできる。

ちょっとしたボタンのかけがえが。
長い経過の中で、大きな違いに繋がる。

要するに、当事者意識。
それが充実した人生のために、何よりも重要なこと。

僕はそんな風に思っています。


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posted by メタマネ佐藤 at 06:54| Comment(0) | 日記

2017年11月08日

覚悟を決める。

何事においてもそうだと思いますが。
腹をくくらないといけない場面、というのがあると思います。

その場面は、瞬間的に訪れることもありますし。
あるいは、これからの自分の人生を決めるという、重大な意思決定の場面もあるでしょう。

それは、ここぞという勝負時ばかりではなく。
日々の「ちょっとしたこと」にも、当てはまることが多い。
嫌なことを後回しにしない、とかね。

いずれにしても、長い人生の経過の中で、連続的に訪れるちょっとした「腹をくくらないといけない場面」で、どれだけ“クッ”と覚悟を決めることができるのかが、重要になる。

瞬間的な場面の、わかりやすい重大な意思決定の例を挙げれば。
プロポーズの場面とか。
進学、就職の面接の場面とか。
離婚や退職を決断する時などは、もっと大変ですね。

でも僕は、こういう勝負時だけじゃなくて、日常の中にちょっとした場面というのは、たくさんあると思うんです。

たとえば、「嫌な人に会わないといけない」とか。
「ここはひとつ、発言しておくべき」とか。
「言いたくないけど、注意しとこう」とか。
こういう“よくある嫌な場面”に、どう向き合うかが重要だと私は考えています。

私がお勧めするメソッドは。
緊張する場面でこそ、敢えて前に出る、というもの。

たとえば、研修会などで手を挙げて質問してみる。
慣れるまではかなり緊張しますが、これって効果絶大なんですよね。
何を質問するかを考えながら研修に参加すると、自分の身にもつきますしね。

まぁ、やり方は色々あるのですが。
一番の根本は、「逃げない」ってことだと思うんです。

そして、ただ「逃げない」んじゃなくて。
腹を決めた以上は、しっかりやる、という。

そういう心構えが大切だ、と思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 18:33| Comment(0) | 日記

2017年10月31日

不機嫌は環境破壊。

最近学んだことで、とてもためになった言葉があります。
それが、「不機嫌は立派な環境破壊ですよ」という話。

地球環境にとって優しいかどうか、ということではありません。
職場環境や人間関係にとって優しいかどうか、ということです。

これは、認知症介護実践者研修の中で、ある先生が触れていたのですが。

認知症の方にとって、職員の機嫌の良し悪しも環境の一部であるということ。
ICFの観点でも、同様の定義付けがされますね。

職員がぶすっと不機嫌でいると、認知症の方はその表情に影響を受けます。
居心地が悪くなってきて、もうここにはいたくない、と思ったりする。

つまり、「不機嫌は立派な環境破壊」というわけ。
しかもこれ、けっこう“あるある”なんですよね。

もう一つ付け加えるならば。

私たちの仕事は、個人プレーでは成り立ちません。
職員間の連携、職種間の連携、職場間の連携が重要なのです。
そうやって考えてみると。

その中に、いつも不機嫌な人がいたら、人間関係そのものがダメージを受けますよね。
そうすると、連携がうまくいかなくなるんです。
結果、サービスの質の低下につながるでしょう。

「あの人に言ったら、めんどくさい」

そう思われるような、不機嫌な人は。
チームケアには不向き、と言わざるをえません。
つまり、二重の意味で「不機嫌は立派な環境破壊」なのです。

これまでも、私はそのような感覚は持っていましたが。
ここまでピタッと当てはまる言葉を聞いたのは初めてだったので。
とても為になるなぁ、と思って聞かせていただきました。
posted by メタマネ佐藤 at 21:51| Comment(0) | 日記

2017年10月26日

しんどい時こそ、笑え。

長いこと、人間やってると。
嫌なことや、逃げたい事にたくさん出会う。

頑張っても、頑張ってもたどり着かない。
どんなに耐え忍んでも、苦しみの終わりは見えない。

毎日がつまらない。
生きている実感がわかない。
そんな虚無感に見舞われることがある。

生きているのが嫌になるような、そんな時。

だからこそ、笑え。
しんどい時こそ、笑え。

そうやって、自分に言い聞かせている。
自分に「笑え」と命令する。

この世は、確かにつまらないどころかもしれない。
でも、死ぬまでの暇つぶしを、どう過ごすかは自分で選べる。

選べないような気がしている人もいるかもしれない。
でも、苦しくて仕方ないなら、逃げてしまえばいい。
一人で責任を背負って潰れることはない。

でも、潰れたとしても。
それが何かの役に立つのなら。
誰かの為になるのなら。

自分の“しんどさ”には、意味がある。

だからこそ。

しんどい時こそ、笑え。
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2017年10月19日

学ぶことの楽しさ。

視野の狭い人には、視野の広い人の考え方はわかりません。
反対に、視野の広い人には、視野の狭い人のこだわりがよく見えなかったりします。

どちらがよい、とは一概に言えないものの。
やっぱり、幅広い視野で物事を見れる方が、なにかと重宝されるものだと思います。

しかし、この「視野」というものは、簡単には大きくなりません。
重要なのは、気付きを養うこと。
他者の指摘に、感謝を持って誠実にむきあうこと。
自らの弱みをしっかりさらけ出すことです。

でも、なかなかそれができない。

他者から指摘されれば腹がたつし。
自らのかっこ悪いところはなかなか見せられないし。
結果として、感性が養われません。

僕は思います。
良い意味で、空気を読まないことは、大切だと。
一生懸命やっていたら、周りの温度と合わなくて、苦しむことはある。

僕は、この三日間、みっちり“生徒”として勉強しました。
ここ数年でも、なかなか無い機会だったかもしれません。
なんか、会場で自分が浮いてしまっているような気がして、どうしようもなく気がひけてしまうのですが。

それでも、貴重な体験だった。
勉強することは、やはり楽しい。

最近は、人前で話すことばかり増えて、みっちり教えてもらう機会が少なくなっていただけに。
新鮮だし、楽しかった。
“教わる”ということは、同時に“教えかた”を学ぶことでもある。

もっとわかりやすく伝えるにはどうすれば良いか。
もっと皆に受け入れてもらうにはどうすれば良いか。
こういうことを言われると、本当に腹が立つ、とか。
そう思っていたら、つい前に出すぎてしまう。

同じ話を、かつて聞いていたとしても。
聞く内容について、詳しく知っていたとしても。
話す人の解釈や、資料の作り方によって、いろいろなヒントがある。
それが楽しい。

かつては、雲の上にいる人たちと思っていた人の言っていることが、よく分かるようになっていたり。
反対に、よく理解していたつもりのことが、全然違う側面を持っていたり。
それをまた、自分の話の中で活かしてみよう、と思えたり。
支援の中で活かしてみよう、と思えたり。

前にのめってしまうなぁ。
あいつ鬱陶しいと思われて無いかなぁ。
そう思っていても、つい。

そんなことを考えていたら、やらされる勉強と、自らがする勉強は、全く違うよなぁ、なんてことを思いました。
次は何をやってみようかなぁ…!
posted by メタマネ佐藤 at 18:05| Comment(0) | 日記

2017年10月12日

目に見えぬ鎖。

先日、千原ジュニアさんがテレビで話していたことが、とても印象深い内容だったのでご紹介します。

それは、ジュニアさんがドラマの撮影をしていた時の話。
車を盗むシーンで、「シートベルトをしてください」と指示が入ったそうです。
コンプライアンスに問題がある、ということだそうで。

それについて、ジュニアさんは「車を盗むような奴が、わざわざシートベルトをするはずがないでしょ」という話をしていました。
僕も、全くそれに同意します。
シートベルトをしないのが倫理的にダメだというなら、「車を盗んで逃げる」という行為そのものもテレビで流しちゃダメじゃないですかね。

一見すると、このようなコンプライアンスの高まりは、倫理性の高まりと捉えられるかもしれませんが、私はそうではないように思います。
そういう変なところまで気を使わないといけないような世の中になってしまったのか、という情けない気持ちになります。
もちろん、色々な世代が見るからこその配慮、というものは必要でしょうけどね。

こういった状況は、倫理性の高まりではなく、低下ではないかと私は思うのです。
当たり前のことを、当たり前のこととして、きちんと捉えられない、教えることができない弊害が、このような形で現れているのだと思います。

ちょっと話がずれますが、僕は昔ダウンタウンの番組が大好きで。
「ごっつええ感じ」のビデオを借りて見返したりするんですが。
昔の番組って、結構タバコ吸ったりするシーンがあるんです。
でも、今は全然ありません。

たしかに、見る年代によっては教育上よくないかもしれません。
だけどね、そういうものに蓋をして、見えないようにすることが、本当に世の中のためになるんですかね?
僕は、こういうのは「多様性の排除」に繋がるんじゃないかと思うんです。

例えば思春期なんてのは、大人の決めた道徳的なレールに乗っていなくても、自分が色々な情報を得ながら、同世代間の価値の比較をすることで、アイデンティティを確立していくことが重要です。
それが、自分らしく生きられる大人になれるかどうかの違いでもあり、多様性と競争力の源だと思うのです。

やむを得ない面もあるとは思いますが、そこまで倫理性を求めるのであれば、テレビ放送はNHKだけに限定すればいい。
僕は千原さんの話を聞いて、「本当につまらない世の中になったな」と思いました。

例えば、火遊びなんて、絶対にしちゃいけないことですが。
そういう“悪さ”って、親に隠れてするからこそ面白いのであって。
たしかにそれだけ見ればよくないことなんだけど、貴重な経験でもあるんです。

テレビっていうのは、疑似体験なのであって。
価値の多様性を学ぶ機会でもあると思うのですが。
倫理性の高い、賢い大人たちが、その機会を奪っているのではないか、と思える。

そんな、目に見えぬ鎖につながれた、息苦しい、つまらない世の中になってるんじゃないか。
そんな風に思うんです。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:01| Comment(0) | 日記

2017年10月10日

きぼうのグリーーン。

もうすぐ衆議院選挙ですね。
小池さんが希望の党を立ち上げて、かなりの議員さんが党を移って、そちらから出馬されたりするみたいで。
まさに旋風を巻き起こしてますね。

でも僕は、「なんだかな〜〜」って、思います。

それは、小池さんが東京都知事になったばかりで、国政復帰ってのはいかがなものか、ということもあるけれど。
それ以上に、国政選挙まで人気投票みたいになっちゃってることに根深いものを感じるんですよね。

申し訳ないけど、“勝ち馬に乗る”みたいな。
そこに、主義も主張も感じないんです。

党利党略ってのがありますから、その時所属している党の方針に従って動かないといけない政治家の辛さ、というのは当然あるでしょうし。
小池さんの政治姿勢や、理想に共感したってことなんだとは思うんですが。

どうも釈然としない。

僕は、民主主義の根本は、保守対革新だと思うんです。
右対左、ハト対タカ、なんていう尺度もありますけどね。
議会制民主主義が産声をあげた頃から、この対立構造は存在していて。
時には行き過ぎて、暴走しかけたりもしたんだけど。
少なくとも、対立軸があるからこそ議論ができる、という面もある。

その意味でいえば、小池さんの言う「革新保守」というのは、是々非々で、国民全体の利益に叶う最も適切な判断を下していく、ということですから、ある意味理想的と言えるのですが。

個々の政治家に力量があれば、それも良いと思うんです。
でも、それが“難しい”からこその政党政治な訳で。
で、蓋を開けてみたら「鞍替え」の人ばかり、ということになると、ちょっとどうなのかなぁ、と。

結局、数字の力なんですかね。
勝てば官軍、なんですかね。
なんて思いました。

僕は、小粒でも芯の通った政党のあり方ってのがあると思いますし、そういうのを期待したいですね。
政策によって賛成協力も、反対もできる、というような。

そういう信義ある政党であれば、国民として信任しやすいというもの。
守旧派の既得権に、風穴を空けるやもしれません。

まずはこの選挙から。
とにかく、投票には行かなくてはいけません。
投票する政党が見当たらないという方は、「信ずるに値する人はいない」という意思表示で、白票を投じる考え方もあるそうです。
ご参考まで。
posted by メタマネ佐藤 at 23:25| Comment(0) | 日記

2017年10月02日

誰かを幸せにするために生きる。

お子さんに「なんのために生きるの」と聞かれたら、
「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてください」
ーー瀬戸内寂聴

なんのために生きるのか。
答えのない問いではありますが、この言葉にひとつの真実があるような気がします。

例えば、自分の私利私欲のためだけに生きる人。
いくらお金を持っていたとしても、その周りに、人は集まらないでしょう。
集まってくるとしても、お金目当ての、似たようなタイプじゃないかと思います。
結局のところ、自分の幸せだけしか考えられないような人は、不幸になると思います。

ただ、寂聴さんのいう「誰か」とは、一体誰のことでしょう。

僕は、「自分も含めた全ての人」という意味じゃないかと思います。

まず、近しい家族を幸せにするために、というのは当たり前ですが。
では何をすれば、家族は幸せになるでしょうか。

それは、第一に健康であること。
そして、共に生活すること。
あるいは、自立して不安を与えないようにすること。
いずれかが難しくなったとしても、家族として助け合えること。
言いにくいことでも、話し合って、分かり合えるように頑張ること。
たとえ別れの時が来たとしても、感謝の気持ちをずっと持ち続けること。

…などでしょうか。
そして、どうすれば家族が幸せになるか、と考えていたら、それは家族だけでなく、全ての人に対して言えることなんじゃないか、と気づきました。

それは家族のためであり。
愛する人のためであり。
友人、同僚、仕事仲間、近所の人など、とにかくあらゆる人のためであります。
私は、それを実感できるからこそ、今の仕事が大好きだし、天職だと思えるのです。

そして、利他に生きることは確かに素晴らしいことですが。
自分自身がそのことを幸せに感じられないとしたら、意味がありません。

今日という一日を振り返り。
「あぁ、今日も誰かのために生きることができた」と思えたら。
充実感を持って、気持ちよく布団に入ることができるはず。

もちろん、うまくいかないこと、失敗することはあると思いますが。
それでも、誰かのために生きられる、それこそが自らの生きる喜びであると、堂々と言える人間になりたい。

そう思わせてくれる、寂聴さんの名言をご紹介しました。
posted by メタマネ佐藤 at 18:35| Comment(0) | 日記

2017年09月25日

神対応を求めるな。

なんだか、SNSとかを見ていると、芸能人の神対応みたいなのがもてはやされる風潮がありますね。
へそまがりみたいで恐縮なんですが、僕は「ちょっと好きじゃないな」と思ってます。

確かにね、誰が見てもよくできた、「うまい対応の仕方」ってあるとは思うんですよ。
だけど、そういうのって、強制されるものじゃないじゃないと思うんですよね。
自分が神対応を求められたりするかもなと思うと、なんか息苦しい、というか。

そもそも、SNSで出所不明の美談なんてものを語られても、本当の話かどうかもわからないですし。
それって根拠不明のゴシップの悪口と、たいして違いは無いですよね。
見て嫌な気がしないぶん、マシかもしれないけど。

とにかくね、「神対応」って言葉が、もうなんか受け付けない。
人間は所詮“神”じゃね〜んだし、とか思うんです。

生きてりゃ普通に、嬉しいことも、やなこともあるじゃないですか。
僕だって、腹たったな〜って日もあるし、今日は頑張ったぞ、という日もある。
うまくいかないことだって、山ほどあるんすよね。

「神対応」というのは、紳士的で、誰も傷つけず、驚くほど行き届いた大人の対応、みたいなことだと思うんだけど。
「そうしてほしい」って、求めることにはなりませんかね?

似たような言葉で嫌いなのは、「空気を読む」とか。
「お客様は神様です」とか。
予定調和っていうですかね。
こうあるべき、みたいなのが蔓延すると息苦しいんです。

例えばね、店員の接客態度が悪いってことでクレームをつけるような人がいるとするじゃないですか。
そうすると、バイトの一人ひとりにまでマニュアルが徹底されるようになっていきますよね。
そうなると、色々と運営する側の問題にすり替えられて行くように思えてね。

マニュアルってのは確かに重要なんだけど、完成されすぎると個々の思考力や対応力、判断力を奪う結果になると思うんです。
息苦しくて、ついていけなくてドロップアウトしてしまう人も増える。
ミスの許されない世の中っていうのは、いざと言う時に力が発揮できない人をたくさん生み出す。

結果として、競争力の弱い社会につながるんじゃないかなぁなんて思います。

とかく日本人は調和を重んじる性質がありますし、それはとてもよいことでもあるのですが。
逆からいえば、調和を乱す者=悪、という先鋭化した発想に陥りやすいのが難点だと思います。

だから、「神対応」なんて言葉を使ってもてはやすのは、なんか嫌だなって思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 20:55| Comment(0) | 日記

2017年09月18日

財布を変えてみました。

image1.JPG



どうも、メタマネです。

今日は、年に数回の天赦日だそうで。
僕にはなんのことだかよくわからないのですが、財布を変えたりするには良いらしいです。
なもので、これまで慣れ親しんだ財布を、新しいものに変えることにしました。

実はこれ、僕にとってはちょっとした冒険です。

僕は高校の頃から、ずっと2つ折りの財布を使ってきたのですが。
このたび、初めて長財布を使ってみることにしたんです。。

これは全くの迷信かもしれませんが、長財布を使う方が、お金が息苦しくなくて良いのだとか。
まぁ、お金を大切にするという意味で、お金のたまる人は長財布を使う、なんてことが言われてますね。
実際どうかはわかんないんだけども。

なんだか、お尻のポケットに突っ込んどくのが不安です。
ケツ圧で財布の形が変わるのも嫌だしね。

ともかくも、慣れしたんだものを変える、というのはなかなか勇気もいるし、最初は使いにくくて大変。
はやいとこ慣れなきゃいけないですね。
posted by メタマネ佐藤 at 23:59| Comment(0) | 日記

2017年09月15日

理不尽なことへの抵抗力。

世の中には、理不尽なことがたくさんあります。

もともと、自然な状態では、平和も平等も存在しない。
それらの概念は、人間が文明社会を築いていく中で、次第にはぐくまれていったものです。

歴史を紐解けば、そこには野蛮で強制的な、権力もしくは暴力による統治が行われてきたわけで。
それこそ、我が国でも戦後民主主義が生まれるまでは、思想の自由は無かった訳です。

つまり世の中には、理不尽なことがもともと溢れている、とも言える。

ただ、私たちは理性ある「文明人」であるから、道理にそぐわない、調和できない理不尽なものを、全体性の中で排除しようとしてきた訳ですが。
それでも、個々に見れば「理不尽な人」や「理不尽な集団」、「理不尽なルール」はまだまだたくさんある訳です。

で、現代に生きる私たちは、その「理不尽なモノ」に慣れてなくて。
これが問題になると思うんです。
理不尽なことはストレス溜まるからね。

所詮世の中は平等にはできていないから。
「どうして平等にしてくれないの?」と思ってもムダともいえる。
そんな風に言うとつまらないけど、ある面では、紛れもない真実だと思うんです。

では、どうすれば理不尽なことに立ち向かえるのか。

…これは少し寂しい話ですが。
理不尽なことには、立ち向かうという発想ではない方が良いです。
理不尽なことってのは、そもそも個人の力ではどうにもならないことがほとんどですから。

だから、理不尽なことには、本気で逆らわない。
これがまず第一の対処法かと思います。

そして次に、素直に従わない。
理不尽なことに対する、捉え方を変えるのです。
距離や時間を置くことができるのなら、なお良いと思います。

それでも、距離を置かせてもらえないような場合。

例えば、仕事で理不尽な人と会わないといけない。
あるいは、上司から理不尽な仕事を求められた。

そういう時は、どれだけ割り切れるか、です。
全ての人や事と、きちんと向き合うことはとても辛いこともありますね。
ただ、そもそも全ての人と信頼を結ぶ必要は無いですから、無理なら割り切って切り離してしまってもいいんです。
そのことで自分が壊れてしまいそうなら、逃避しても構わないわけです。

…とはいえ。
逃げたり、切り離したりすることにも勇気がいります。
決断が必要になります。

そういう時には、世の中は所詮、理不尽なものなんだ、ということを思い出してみてください。
そして振り返って、自分がまだその理不尽な状況に耐えられるならば、もう一踏ん張りしてみるのも、決して悪いことではありません。

なぜならば、この“理不尽さ”は、人を強くしてくれるものだからです。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と昔の人は言いましたが。
それは確かにその通りで。

嫌なことや理不尽なことから逃げるばかりしていても、成長は止まってしまう。
だから、ちょっと逆説的なようですが、理不尽なことに対する抵抗力というのは、生きるためには絶対に必要な力、とも言えるのです。

自分が壊れるまで理不尽さに耐えろ、とは言いません。
しかし、ちょっとした理不尽さに耐えられず、すぐに逃げ出すようでは、自立できない。

厳しいようですが、僕はこの「理不尽さへの抵抗力」が弱っているから、仕事が続かない若者が増えているんじゃないか、と思ったりします。

今の若者たちは、僕が若い頃よりも、ずっと理性的で賢い人が多いと思っています。
そして未来を担う、貴重な人財です。

いい人過ぎて、理不尽さに押しつぶされることがないように。
多少の割り切りと、居直る厚かましさみたいなものも、大切なことだと僕は思うんですよね。
posted by メタマネ佐藤 at 06:58| Comment(0) | 日記

2017年09月03日

失敗と向き合う。

失敗とは転ぶことではなく、そのまま起き上がらないことなのです。
(メアリー・ピックフォード)

みなさん、失敗してますか?

僕は、しょっちゅう失敗してます。
小さなことなら、毎日何かを失敗しています。
胸をはっていうことでは無いですけどね…。

さて。

失敗には、大きいのや小さいのがありますけど。
その失敗の“痛さ”というのは、必ずしも大きさとは比例しないようなのです。

“痛さ”というものは、その大きさよりも、むしろ“感じ方”による。

僕が一番失敗の“痛さ”を感じるのは、自分に嘘をついている時です。
それによって、近しい大切な誰かを、悲しませる時です。

本当にカッコ悪い。
自分でも悲しく情けない。

できれば、そういう想いはしたくないものだけど。
でも、そういう痛みは、生きて行く上で欠かせない大切なものを教えてくれると思うのです。

痛い思いはしたくない。
だから、失敗はしたくない。

それは、確かにそのとおり。
…でもね。

失敗を恐れて、何も行動できないのだとしたら。
それこそ最大の失敗だ。

失敗するというのは、貴重な経験をする、ということだ。
勝った喜びよりも、負けた悔しさが人間を強くするように思う。

失敗や挫折は、誰しも経験する。
ただ、なかなかその意味を深く考えようとしない。
なかなか自分の失敗を認めることができない。

自分の失敗を振り返ることは、辛いし、恥ずかしいからだ。

ただ。

自分のミスや誤りを、認めることができない人ほど、つまらないものはない、とも思う。

世の中には、自分の失敗の責任を認められない人、というのが少なからずいる。
意固地になって、自分の正しさを主張し、相手を常に悪者にする。
そういう人は、信頼に値しないですよね。

つまり。

人間関係において大切なことは、自らの正しさを証明したり、主張することではなく。
中立的、客観的に、失敗や間違いを認めることが大切なのです。
そのためには、失敗を恐れないことと、嫌われることを恐れないという、二つの勇気が必要なのです。

そして、できることなら。

他者の失敗に対しては、寛容でありましょう。
自己反省や失敗を容認できる社会のあり方こそ、人間味のある温かい社会、とも言えるはず。

まずは、自分の失敗と向き合うことから、始めましょう。




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posted by メタマネ佐藤 at 21:30| Comment(0) | 日記

2017年08月28日

歩く速さ。

人の歩く早さは、みんな違う。

早く歩く人は、遅い人にイライラするだろうし。
歩くのが遅い人は、早い人を羨ましく思うか、せわしなく息苦しい気持ちになるかもしれない。

また、その時と場合によっても、歩く速さは変わってくる。
いつもはのんびりしている人も、仕事ではまるで人が変わったかのようにあくせく働くかもしれないし。
普段はせかせかしていても、家庭ではうって変わってゆったり過ごす、ということもあるかもしれない。

あるいは、気分の問題で、歩く速さも変わる。
気持ちが暗く沈んでいるときの足取りは重い。
反面、気持ちが前向きであれば、羽が生えたように軽くなる。

いずれにしても、私たちはその人を知っているつもりでも、本当は一つの側面、一つの場面しか見ていない、ということなのかもしれない。

できるならば。
皆が、自分のペースで、気持ちよく歩けるように気をつけたい。

気持ちの良い人間関係とは、そのようなものではないかと僕は思う。
posted by メタマネ佐藤 at 21:45| Comment(0) | 日記

2017年08月22日

圧。

「圧」の強い人、弱い人というのがいますよね。

他者と会話をしていると、目には見えませんが空気圧というか、押しが強くて息苦しくなるような人がいると思うんです。
自己主張が強いとか。
他人の意見を聞かないとか。
見た目が怖いとか。
「威力」なんて言葉で表現する事もありますね。

反対に、圧に押し負け続ける人というのもいますね。
自分もいろんなことを話して、想いを主張したいのだけど。
我を通せないというか。
つい、相手に譲ってしまうというか。
立ち向かう力が維持できないというか。

今日は、そんな目に見えない人間関係の「圧力」について考えてみます。

常に相手の意見を受け入れるしかない状況というのは、はっきり言ってかなり強いストレス状態です。
おそらく、圧の弱い人は、圧の強い人が苦手だし、嫌いなことがほとんどです。
直接言わなくても、「厚かましい人だ」というふうに蔑んだりして。

ですが、相手を圧倒する側と言うのは、自分がそんな悪いことをしているとは、全く気付いていないことがほとんどです。
むしろ、当然の主張をしているだけだと思っている。
言いたいことがあるのなら、なぜ言わないんだ、と思っている。
だから、さらに強く相手を言い負かすように、圧をかけてしまうのです。

ここに、人間関係の悪循環が生じます。
相性が悪い、と一言で片付けても良いのですが。
例えば同じ職場内でそのような状況が生じているとしたら、かなり強いストレスにさらされ続けることになるでしょう。
これが夫婦だった場合には、生活が成り立たなくなってしまうことも。
最悪、離婚してしまいます。

先日、こんな話を耳にしました。

夫婦の間で、片方が潔癖症、片方がだらしない性格、という場合。
潔癖な方からは、だらしないパートナーに対して不満を感じることはよくあるのですが、離婚を申し込むことはほとんどないそうです。
反対に、だらしない側の方から、潔癖症の相手に対して離婚を申し込むことが多い。
「もうあなたに合わせるのは耐えられない」というわけです。

ここに、先ほど私が述べた、人間関係の「圧」の問題がある。

潔癖症の人は、自分自身の常識に基づいて、当然のことをしているだけだと思っています。
幼い頃からの生活環境や、習慣によって現在の衛生観念は作られますから、それに従って“普通”の行動をしているだけです。

そして、それはだらしない側のパートナーにとっても同じこと。
生育歴の中で、「少々の事は気にならない」という観念を育ててきたのです。

この場合、だらしない側の人は、潔癖症の相手に「なぜそんなこともできないの」と叱られ続けることになります。
価値観の相違なのですが、潔癖症の人が、だらしない相手に衛生観念を合わせていく事はまずありません。
なぜなら、自分のしている事は「正しく当然のこと」だからです。
一方、だらしない側の人は、常に相手の価値観に合わせ続ける、ストレス環境にさらされることになる。
この状況に、「疲れる」のです。
そして、パートナーを解消したくなる。

つまり、圧の強い人というのは、自覚なく相手を傷つけてしまうということに気をつけないといけない。
圧の弱い人は、相手の圧に負けないような強い自我形成に取り組まないといけない。
この両面の歩み寄りが重要なのだと思うのです。

もう一点気をつけることがあるとすれば、この人間関係の「圧力」は、その立場によっても変わるということです。

上司の圧力に向かわさらされ続ける。
これすなわちパワハラ。

異性の圧力にさらされ傷つけられる。
これすなわちセクハラ。

賢い人に、バカにされ続ける。
これすなわちアカハラ。

まぁ、なににしても。
相手の立場や気持ちを思いやれないのはダメだ、ということですね。

知らぬ間に、自分がそのような「圧」を他人に押し付けることがないように、気をつけたいものですね。
posted by メタマネ佐藤 at 22:52| Comment(0) | 日記

2017年08月14日

過敏反応は国を弱くする。

最近よく思うんです。
今の世の中は、ちょっとしたことに敏感に反応しすぎなんじゃないか、と。

政治家が失言したとか。
誰かが不倫したとか。
そういう話が多すぎます。

僕は、正直思うのです。
なんでそんなしょうもないことがニュースになるの?
ヒマなの?
平和すぎるのがよくないの?
その陰で、なにか大切なことを見落としてるんじゃないの?
…なんてね。

特に、国会議員の失言などについての批判的報道姿勢は、常軌を逸しているように思えます。
失言なんて、文脈を読まずに言葉の一部だけ切り取れば、あって当たり前だと思うんです。
ちょっと冗談のつもりで言ったとしても、それが「不謹慎だ!」って怒る人はいるわけで。
政治家さんってのは、一日中ずーっと喋ってる中の、たったひと言が不適切って言われたら、それで仕事無くなる可能性だってあるわけでしょう?
そういう言葉狩りを恐れていたら、それこそ何も言えなくなって。
議論そのものが狭小化する。

失言すれば、再起不能なほどに叩かれ、追い込まれるわけだから、大事な本音は、影とか地下で話をするようになっちゃいますよね。
だから、よくわからないまま、重要なことがするっと決まったりしてるんじゃないかな?とか思っちゃいます。

また、不倫の報道も、「いちいちニュースに載せるんじゃない」と思います。
そういうのに特化した、くだらない週刊誌の報道を後追いして、火に油を注ぐマスメディア。
テレビでやるなら、生産的でない時間帯の放送にとどめて欲しいけど、国民がそれを欲しているからトップニュース扱いなんですよね。
これぞまさに衆愚状態。

僕はそもそも、有名人が不倫したとか、他人のプライベートな話に、なんで目くじら立てて怒れるのかわからないです。
身近なテーマだから、ニュースとしての付加価値が高いのかな、なんて思いますがね。

そして、日本国民は。
そういう些少なことに対して、SNSなどで、容赦なく攻撃を浴びせるよね。
これがまた、なんとも情けない気持ちになるんです。

失言とかしないように、ミスしないように生きることが大切なんではなくて。
失敗を活かせるような、そういう懐の大きさみたいなものが、社会には大切だと思うんですが。

ケツの穴の小さい話ばかり。
そんなことだから、前にも出れなくなるんです。
ちまちましてて、本当に嫌になります。

もっと力を入れて考えないといけない問題は、たくさんある。

ちっちゃなことに過剰反応して、自己満足の世界にいたら、正念場で力を発揮することはできません。
厚かましい第三国に対抗することもできません。
ひいては、大切な私たちの国や家族を守ることもできなくなると、僕は思うんです。

だから、他人様の少々のことは、目をつぶったらいいじゃありませんか、と思う。

でもね。
たぶん、そういう話が本質的に「好き」な人が多いからってのも、あるんすよね…。
posted by メタマネ佐藤 at 18:48| Comment(2) | 日記

2017年08月08日

「だろう運転」と「かもしれない運転」

昔、自動車教習所に通っていた頃。
どうしても腑に落ちないことがありました。

それは、「だろう運転」「かもしれない運転」という言い方です。

なぜ腑に落ちないかと言うと。

例えば、かもしれない運転。
これは、見通しの良くない十字路などで。
横から自転車が飛び出してくる“かもしれない”というように、いつも危ない“かもしれない”という意識を持って運転しましょう、ということですよね。
この反対が、自転車が飛び出してこない“だろう”という、漫然とした“だろう運転”になるわけですが。

僕はこのふたつ、「日本語としておかしいんじゃないか」と思うわけです。

だって。

自転車が、飛び出して来る“だろう”と予測すれば、慎重な“だろう運転”と言えるし。
反対に、自転車は出てこない“かもしれない”と予測すれば、無責任な“かもしれない運転”ともなりうるわけです。

つまり。

“だろう”と“かもしれない”は、どっちも仮定の話をするときの接尾語であって。

「出て“くる”かもしれない」
「出て“こない”かもしれない」
「出て“くる”だろう」
「出て“こない”だろう」
という、打ち消すニュアンスが、文章に含まれているかどうかの問題なんですよね。

まぁね、確かに屁理屈みたいな話かもしれません。
でもね、なんか腑に落ちないんですよね。

ただ、それだけなんです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:27| Comment(0) | 日記

2017年08月01日

始まりと終わり。

物事には始まりと終わりが必ずあります。

どんなに辛い毎日であっても、その辛さには必ず終わりがあります。
その逆もしかり。

物事の終末は、必ずしも良い結果ばかりではありませんが。
それでも、必ず終わりの時が来るのです。

特に、今いろいろな悩みに押しつぶされそうになっている人は。
この言葉を、思い返してみると良いでしょう。

つらく苦しいときには、なかなかそのトンネルの出口が見えません。
永遠に続いていくかのように思われる、その暗く長い道のりは、将来に何一つ良いことが待っていないかのような錯覚を覚えさせます。

大概の場合は、いずれトンネルを抜けるタイミングがあるものですが。
ときには、行き止まりに突き当たることもあります。

しかし、行き止まりに突き当たるということを、恐れてはいけない。
それは、折り返し地点を知ると言う意味で、自分の限界点を知ると言う意味で、有意義な学習なのです。

つまり、辛く長いトンネルを抜けるということも、行き止まりに突き当たるということも、いずれにも価値がある。

さて、話を戻しましょう。

物事には、始まりと終わりが必ずあります。
出口がなければ、戻ればいい。
終わりの時は、必ずしもいい結果とは限らないけど。
それでも、その体験や経験は、必ず何かの役に立っていくのです。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:38| Comment(0) | 日記