2017年07月26日

最近のひどい話。

最近、ひどいな〜と思ったこと。

全国的に見れば、松居一○さんの一連の騒ぎ。
ネタ元もひどいし、ニュースで扱うのもひどい。
個人的なことを、日本中が共有させられる。
彼女は、通常の状態にあるとも思えないし。
SNSやネットの“悪いところ”が目立つ。
テレビで扱うのは、もう終わりにして欲しい。

二つ目は、国会議員の足の引っ張り合い。
これは、昔からあるし、今後も変わらないかもしれないけど。
誰が二重国籍だろうが、誰の友達がどうだろうが、「はげー」って叫ぼうが、ドウデモイイ。
要するに、あんたら自身の問題を、国会使って議論しないでよって思う。
国会議員は、国民の代表なんでしょ?
日本人として、恥ずかしい。

身近なところでは。
障害者を多数雇用している作業所の、一斉解雇問題。
大きなニュースにはなっていないけれども、これこそ大きく取り上げて欲しいニュースです。
詳しくは、是非みなさん自身で調べてください。
「障害者解雇 220人」で検索してみてください。

このニュースに、気になることは山ほどありますが。
事実関係の明らかでないことは、書くべきではないでしょう。
ただ、負うべき責任はきちんと果たしていただきたい。
それを願うのみです。

ただ、220人の暮らしは、これからどう守っていくのか。
この人数は“多い”です。
ひとつひとつが、個別性の高い問題でもあります。
本当に大変なことだと思います。

一つ目、二つ目の話は、取り上げなくてもいいニュース。
三つ目の話こそが、きちんと実態が明らかにされなくてはならないニュースではないでしょうか。

こう考えたとき。

本当にひどいのは、世の中のあり方そのものではないか、と改めて思ったのでした。
posted by メタマネ佐藤 at 18:34| Comment(0) | 日記

2017年07月18日

わが町への愛着と誇り。

三菱UFJリサーチが、市民のプライド・ランキングという面白い調査を公表しています。
これ、面白い調査なので、是非みなさんにも検索してもらいたいな、と思うんですが。

調査対象は、全国21の市町村。
この中には、我らが岡山市も入っています。
この調査は、その町に住んでいる20〜60代を対象として、200人ずつアンケートをとり、「わが町」の愛着と誇りを調べた、というものです。

で、結論。
愛着と誇りの第1位は、いずれも福岡市。
これは「さすが」としか言いようがないですね。

福岡に続くのは、京都市、神戸市、仙台市、札幌市といった、誰もが認める魅力的な町。
で、われらが岡山市は…愛着は下から5番目の17位、誇りは下から2番目の20位という散々な結果に。

要するに、「誇り」も「愛着」も低い、ということなんです。

都市のイメージに対する共感ワードの結果もひどい。

神戸市民の場合、上から順に「おしゃれ、国際的、便利、楽しい、ハイセンス、落ち着きのある、ロマンチック」というポジティブなワードが続きます。

これが岡山市民の場合は、「ほどほど、ゆったりした、地味、保守的、落ち着きのある、便利、伝統的」と続きます。

…そりゃ、神戸には勝てないよな…とは思いますが。
それにしても、酷くないですか?
まぁ、住みやすいって感じはありますけどね。

いずれにしても、「わが町」に対しての愛着や誇りが低いという結果は、かなり問題だと思います。
いみじくも、自己中心的で保守的と言われる県民性を露呈してしまったような。
そんな嫌な気持ちになってしまいましたが…。

でもね。
それは、あくまでも「イメージ」ってことですから。

実際に暮らしている僕は、災害も少ないし、交通の便もいいし、ほんとに住みやすい町だという実感はあります。
不満がないわけじゃないけど、いい町にしていくのは、僕ら自身の意識が大切ですから。

これは、直感的に思うことですけど。
「車線変更で指示器を出さないドライバーが全国一多い」と言われるあたりに、岡山県人の問題を感じるんですよね。
これ、「自分さえ良ければいい」という人が多いってことじゃないでしょうか。

自己中では、「わが町」への愛着と誇りは育たないと思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 21:48| Comment(0) | 日記

2017年07月14日

だし天茶うどん。

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この前コンビニに買い物に行った時。
1つの商品が目に留まりました。

それは、日清のどん兵衛、だし天茶うどん。
おそらく、期間限定商品なのだと思いますが、そのパッケージに描かれたコピーに大変興味をひかれました。

「日清の黒歴史復活!」で始まるその見出し。

2002年発売当時は売れなかったこの商品。
今、出汁ブームだからこそ食べて欲しい。

私は、この言葉を堂々と“書ける”ことに、日清という会社の強みを感じました。

つまり、売れようが売れまいが、自分たちの商品に自信がある。
その姿勢が素晴らしいですよね。

で、食べてみた感想。

わさびの風味が効いている。
なるほど、確かに出汁の旨味。
ただ、個人的な好みの問題かもしれませんが、ちょっと濃いですね。

あと、ノリ天が思ったより小さかったかな。
せっかく「天茶」をウリにするのなら、ここはもう少しボリュームが欲しかったです。

皆様も、ぜひ一度召し上がってみては?



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posted by メタマネ佐藤 at 20:39| Comment(0) | 日記

2017年07月10日

気を遣う。

皆さんは、気を遣うほうですか?

僕は、自分ではかなりまわりに気を遣うほうだと思います。
それが、適切に気配りできていないとしてもね。

なぜ気を遣うのかといえば。
みなさんに、嫌な気分になって欲しくないからです。
でも、価値観は違うものですから、全ての人を“嫌な気持ち”にしないようにすることは、とても難しいことでもあります。

気を使って、それで嫌な反応が帰って来たりすると、今後もう気を使うのはバカバカしく思えたり。
意味のないことであるかのように思えたりします。

実際、気を遣っている方からすれば、ほんとうに頑張って、誠心誠意尽くしているつもりなのですが。
それも、伝わらなければ意味もありません。

思うに。

自分がただ、相手に気を遣っているというだけなのか。
相手の心に届く気配りができている、ということなのか。

その違いはとても大きい。

それは、「よく思われたい」という利己的な行動によるものか。
それとも、「相手のために」という利他的行動なのか。

…おそらくは、両方です。
どちらか片方の動機だけで、気を遣うという人はいないと思うのです。

できるなら。
自分のためではなく、思いやりをもって気遣えるような人間になりたいと思うんですよね。
posted by メタマネ佐藤 at 19:42| Comment(0) | 日記

2017年07月04日

話してもわからない人。

犬養毅は、暗殺される前に「話せばわかる」と言いましたが。
「話してもわからない人」というのが、世の中にはたくさんいると思います。

それは、その人の「理解力がない」ということではなく。
「理解しようとするつもりがない」から、話してもわからない、ということなのだと思います。

立場や価値観の違いによって、容易にこうしたことは起こる。
その違いを埋めるには、どちらか片方の立場の人だけが頑張っても、意味がない。
お互いに、理解し合うつもりになって、歩み寄る努力をしなくてはならないのです。

その努力を、惜しまないという前提がなければ。
「話せばわかる」にはならない。

もっと単純に言えば。
話を聞く気のない人に、いくら熱心に話したところで無駄なんですよね。

ではどうして、「話を聞く気にならない」のか。
先ほども挙げた通り、立場や価値観の違いというのもありますが。
信頼関係の有無というのが、ことさら大きいのではないかと思います。

つまり、「あの人の言うことなら信用できる」。
もしくは、「あいつは信用できない」。

…これは、白か黒かの話ではないのですが。
日常というのは、些少なすれ違いの蓄積でもありますから。
不信というのは、とくに“溜まる”のでしょう。

信用の蓄積が、積み上げにくく、脆く崩れやすいのに比較して。
不信の蓄積は容易く、確信を持って高く積み上げられてしまう。
だからこそ、不満や愚痴は、頑迷なほどに強固なのだろうと思うのです。

言い方を変えれば、価値観の囚われ。
自分自身を追い込まないように、気を付けたいものです。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:05| Comment(0) | 日記

2017年06月29日

ハラスメント。

国会議員のパワハラが話題になってますね。

東大出て、ハーバード大学出て、キャリア官僚になって、国会議員にまでなったというのに。
こんなに残念な人というのも珍しい。

なかには、バースデーカードを47箇所も送り間違えた秘書も悪い、なんて人もいる。
だけど、それはそれでしょ。
この人の怒り方っていうのは、やっぱり常軌を逸してるとしか思えない。

そこで今日は、ハラスメントについて考えましょう。

ハラスメントってのは。
要するに「いじめ」とか「嫌がらせ」のこと。
いい歳こいた大人がいじめをやると、“ハラスメント”って言うわけだ。

そして、ハラスメントというのは、やったほうがそれと意識して行ったかどうかは問題ではない。
受けたほうが、「これはハラスメントだ」と捉えれば、ハラスメントとして成り立ちうる可能性がある。

やってる本人に、いじめている自覚がある場合もあるが。
多くの場合、やってる側は無自覚なことが多い。

仕事のミスしたからって、殴ったり、家族を馬鹿にしたりするのは、明らかにやりすぎだし、イジメですね。
でも、彼女をテレビで公開処刑みたいにするのは、イジメって言わないのかな?って思う。

自業自得といえば、確かにそうかもしれないけど。
他者の振る舞いを私的に“裁く”のは、やってるレベルは変わらないこと。

とにかく、一つだけ言えることは。
彼女は国会議員を務められるような人ではなかった、ということなのでしょう。

だって、弱いものいじめするような人が、国の政治で実権なんか握られた日には、この国もおしまいですからね。
posted by メタマネ佐藤 at 23:18| Comment(0) | 日記

2017年06月26日

久々です。

久しぶりにブログを更新してます。
このところ、ずっと忙しく、体調が今ひとつだったこともあり。
なかなか更新できていなかったのです。

このところ、世の中はめまぐるしくいろんなことがありましたね。
なかでも、麻央ちゃん死去のニュースには、多くの人が関心を寄せたことと思います。

特に、死を間際にしての“生き方”に共感する人も多かったのではないでしょうか。
インターネットやSNSを、生きるためのツールとして使う、というと語弊があるかもしれませんが。
私が思ったのはそういう印象でした。

死を間際にしても、多くの人に勇気と共感を与える麻央ちゃんの姿は、胸を打つものがありました。
しかし同時に、我々は彼女の生き様を“感動”という形で“消費”しているのではないか、と考えるところもありました。

本当ならば、残された大切な時間をどう使うかは、彼女や彼女の近しい人々の間で決めるべきことであったはず。
そもそも、当初は病気療養中であることを隠して闘病していましたよね。
ブログやSNSを通じて、自分の想いを発信したり、色々な人とつながることは、大変意味のあることだと私自身も思いますが、果たして彼女自身がそれを本当に望んでいたのだろうか、と考えると、とても複雑な気持ちになるのです。

とはいえ、おそらくは。
ブログに率直な心境を綴ることの意義は、麻央さんのなかでしっかり形になっていだのだろうと思います。
安易な励ましを求めるためではなく、自分自身が生きて、何かを残すために、自分の今の境遇や心境を綴る。

それは、後に残される家族にとっても、意味のあることだったのではないかと思います。
麻央さんのご冥福を、心よりお祈りいたします。
そしてこの国から、ご遺族に“今の心境”を尋ねるような、非倫理的な報道が無くなることを切に願っています。
posted by メタマネ佐藤 at 17:45| Comment(0) | 日記

2017年06月16日

目前の一段。

最初の一歩を踏み出しなさい。
階段全体を見る必要は無い。
ただ、最初の一段を登りなさい。
ーーキング牧師

アフリカ系アメリカ人の、公民権運動の指導者として、壮大な夢を掲げ、成し遂げる目前で暗殺されたキング牧師。
彼の偉大な功績は、世の中の誰もが知るところであります。
我々の業界でよく言う「エンパワーメント」とは、彼らの公民権運動の中で生まれた概念とも言われています。

本日ご紹介する彼の名言。

壮大な何かを成し遂げようと、大きなものを見るのではなく。
一歩を踏み出すことの大切さを説いていますね。

今日も明日も登りましょう。
その目の前にある一段を。




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posted by メタマネ佐藤 at 18:12| Comment(0) | 日記

2017年06月15日

俺はバカじゃないだろうか。

俺はバカじゃないだろうか。
心の底からそう思う。

そのくせ、とびきりプライドは高い。
自分の馬鹿さ加減は、自分で一番よくわかっているはずなのに、それでも第三者に「馬鹿じゃないの?」と思われるのは嫌なんだ。

なめられたくない。
特に、俺のことをよく知らない奴らに。

喧嘩をするほど度胸はない。
相手を論破したところで、気持ちのいいものじゃない。
年齢を重ねて、知識はある程度蓄えられたし、コミニケーションの技術も高くなったと思う。
しかし、相手を理屈で捻じ伏せたところで。
それは口ゲンカに勝っただけで、人間としての小ささを露呈するだけ。

それならば、自分の無知に恥じ入りながらも、負けず嫌いを装って、世の中と渡り合っていくほうがいい。

何にも得をしない。
でも、恥ずかしい人間にはなりたくない。

余るほど金を稼ぐつもりはない。
俺は自分自身に恥ずかしくない、そういう生き方をしたいだけ。

だけど、自分自身をよく見せようと言うプライドにこだわってしまう。
そんな自分自身を、心の底から「馬鹿じゃないか」と思う。

でも、 そんな自分が嫌いじゃない。
だから、こんなつまらないことを書き綴り、誰かの共感を得たいと、思ってしまうのでしょうね。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:09| Comment(0) | 日記

2017年06月10日

いわゆる残念な人。

優れた技術や知識を持っているのに、人間性が伴わない人。
こういうのを、「残念な人」といいます。

「あー、いるいるそういう人」と言うのは誰もが思うこと。
しかし、自分自身がそうとはあまり思わないものです。

かく言う私自身も、そうかもしれません。
時々、自分でも気をつけてはいるのですが。

この残念な人の成り立ちについて考えたところ。
主に二つの要因があるな、と思い至りました。

まず1つ目は、成功体験の積み方が間違っているということ。
もっとわかりやすく言うと、勘違いですね。

もう1つは、周りに指摘をする人が誰もいない、ということ。
キャリアを積み、立場が上になるほどこういう傾向が起きやすくなると思います。

そうやって、勘違いして、ちやほやされたまま時間が経過すると。
残念さにも拍車がかかる。
何年も勘違いして、ずれたまま人生を歩んでしまったら。
取り戻すことはどんどん難しくなっていく。

僕はそれが、ものすごく「怖いな」と思うんです。
だからこそ、日々の心がけが大切なのだと、いつも思っているのですが。

…やっぱり自分に甘く、チヤホヤされたいもので。

知らない間に残念な人になってしまうことがないように、気をつけていたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 18:21| Comment(0) | 日記

2017年06月06日

見栄っぱり。

自分を少しでも良く見せたい。
そう思うのはある意味自然なことだと思います。

馬鹿だと思われるよりは、賢い人だと思われたい。
性格が悪いと思われるよりは、誰にでも優しい人だと思われたい。
お金がないと思われるよりは、お金持ちだと思われたい。

わかりやすく言えば、「見栄っぱり」ということですかね。

SNSでは、よく「リア充アピール」なんて言いますが。
確かによく見る、そういう投稿。

「これって、誰に向けてやってんの?」
そんなふうに、思わないでもない。

この前、ある人が言ってましたが、「いいね!」をもらうために、借金してまでセレブを装ったり、旅行に行ったりする人もいるのだそうで。
なんとも、闇の深い話です。

そもそも、どうして見栄を張ってしまうのか。

それは、自分が平凡な者、あるいは劣っている者だと認めることができないからではないか、と思います。

誰だって、自分自身のことは特別な存在です。
ただ、優れているとか、劣っているとかいう話になると、様子が変わってくる。

この世には、お金持ちもいるし、超イケメンもいるし、頭のいい人、運動神経が特別に素晴らしい人というのもいます。
その真逆の「持たざる人」も、当然います。
だけど、「持たざる人」に“価値”がないかと言えば、決してそんなことはないはずなのです。

…それでも見栄を張ってしまうのは、そういう価値観の偏りがあるからこそ。
これは実に、恥ずかしいことなのです。

そもそも、なにに対して「価値がある」と考えるかは、その人次第ですから。

見栄とは、そういう人それぞれ違う価値観に配慮なく、自分がどう“良く”見られるか、ということにこだわっていること。
内面ではなく、外見上の“飾り”が、価値の中心を握っている状態であること。

だから、見栄え良く着飾ることに、囚われてしまう。
本質でなく、虚飾の価値観に囚われてしまう。
これは、悲しいことですね。

つまり。

つまらない見栄なんか、持たない方がいい。
こだわりを捨てて、自然体でいられること。

そのことにこそ、価値を見出すべきだと思うのです。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:20| Comment(0) | 日記

2017年06月02日

侮蔑の心理。

なににつけても批判を繰り返す人、というのがいます。

最たる例、というと語弊があるかも知れませんが、頻繁に職場を変えてみたり。
インターネットやSNSで過激な自己主張をしたり。

…こういうのは、見てても辛いものがある。

どうして批判を繰り返すのか。
それは、自分のことを認めて欲しい、という承認欲求がさせること。
もっと言えば、自分に対するコンプレックスが強いほどに、攻撃性は強くなるものではないか、と考えます。

もう一つの側面は、自分は有能なんだ、特別なんだという、自我の肥大があるでしょう。
人の個性というのは一長一短ですから、全てにおいて優れている人というのはいませんし。
自分の「勝ってるところ」に拘るようになると、自分を“優れた者”と勘違いしてしまって、ダサいことになってしまうのかな、と思ったりします。

つまり、自分を認めて欲しい、こんなに優れているんだから、という心理。
それを叶えるために、他者を不当に貶める。
それが「侮蔑の心理」の構造です。

つまり、他者を攻撃するのは、自らの有能さを認めさせるため。
こういう人が組織にいると、全体のモチベーションを下げてしまい、生産性を低下させてしまう。
まさに「足を引っ張る人」というわけです。
そういう自覚は、本人にはないでしょうけどね。

ま、総じて精神が“子供”なんです。
みんなに認めて欲しくて、自我を振り回すわけだから。
こういう人は、どんなに優れた能力を持っていても、はた迷惑で使いものになりません。
SNSというのは、全くもって便利なツールですが、ちゃんと心が大人になってから使わないと、精神的自立の妨げになるな、と思ったりします。

職場の上司とか、嫌いな人とか。
あるいは会社という社会集団を貶めることで、自分の価値を再認識したり。
「俺はこんなに考えてるのに、あのアホどもにはわからない!」とかね。

優越感を得るために、他者を攻撃するってのは、全くもって筋違いですが。
当の本人は、「自分は正しい」と思っているので、話し合いの余地はなかなかありません。

そういう人と関わるのは、なにより不毛だし、労力の無駄だし、恨まれても困るし、めんどくさいので、関わりたくないのです。
そうすると、余計に孤独を深めて、勝手に居場所を失ったりする。

僕がこんなことを思い、ブログに載せてるのも、ある意味では、自分自身の自我肥大の成せることかもしれませんけども。
なにせ、「足の引っ張り合いは、社会的損失がデカすぎる」と思うんですよね。
なにより、それをやってる本人が、居場所がなくて苦しいでしょうから。
なかには、SNSやネットの繋がりこそが居場所、という人もいるのかもしれませんが…自覚無くやるのは危険。

批判や侮蔑は、他者の足を引っ張る行為。
声の大きい人は目立つから、引き込まれたりする。
それが無ければ、やる気充分で頑張れるのに、という人も多いんですよね。

私自身も、そういう皮肉っぽいところがあるので、気をつけないといけないな、と思います。
posted by メタマネ佐藤 at 22:24| Comment(0) | 日記

2017年05月29日

微力。

「微力ながら」という言い方がありますね。
私は、この“微力”という心構えが、とても大切だと思っています。

我々は皆、微力ですが、無力ではない。

一人ひとりの力は弱い。
だからこそ、支え合いながら、生きていかないといけないのです。

時に、自らの力の無さを突き付けられ、絶望してしまうことがあるかもしれません。
だとしても、それはただ「力が足りない」だけであって、「力がない」わけではないのです。

どんなに優秀な人であっても、人間一人の力など、たかが知れています。
だからこそ、大勢の人たちの力を借りなくては、ものごとは前に進まないのだと思います。

たとえ、一人ひとりの力は小さくても。
悪い方向でなく、良い方向に、「微力」を発揮することが大切なのだと、僕は思うのです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:04| Comment(0) | 日記

2017年05月23日

期待と失望。

なにかを期待するから、思ったようにいかない時に失望する。
だったら、はじめから「うまくいかないもの」と捉えておけば、痛い目に遭わずに済む。

つまり、なにも期待しない方がいい。

こんな考え方があると思います。
とてもネガティヴだけど、その気持ちはよくわかる。

私たちは、これまでの人生の中で、数多くの失敗を経験している。
その度に傷つき、失望し、なにかを諦めて、うまくいかない現実との折り合いをつけながら生きています。

「もうこれ以上傷つきたくない」

だから、期待するのをやめてしまう。
しかし、そうすると、とても寂しくなってしまうのです。

この「寂しさ」は、もっとも克服が難しい感情。
私たちは、幸せになることを、簡単に諦めることはできない。

だから、一度は諦めた「期待すること」に、すがってしまったり。
思い切って環境を変えてみたりするのでしょう。
最近はやりの断捨離も、こだわりから手を離すための、ひとつのメソッドなのだと思います。

そこでひとつ、考え方のご提案。
「最初から期待しない」ではなくて、「期待しすぎない」と認識を変えるのはいかがでしょう。

ものごとは、「うまくいく」「うまくいかない」という、二者択一ではありません。
最大の期待に対して、どのくらいうまくいったか、という達成度こそ、見るべき視点です。
期待の半分くらいはうまくいった、というように、できたところ、うまくいったところに焦点をあてるようにすれば、ひどい失望感にとらわれることは少なくなるはずです。

私は、この感覚はとても大切なものだと思うんです。
「期待するから失望する」じゃなくて、常に「ある程度」を求める。
そうすれば、期待しすぎて、結果として期待はずれの場合も、絶望を味わうことは少なくなると思うのです。

世の中、うまくいかないことは、当たり前なのです。
うまくいかなくて傷つくとしたら、「期待のし過ぎ」に原因があるのかもしれない。

「ある程度」の結果に対して、満足の折り合いを下げる。
そうすると、肩の力が抜けて、楽になります。
だって、そもそも世の中は“うまくいかない”ようにできているわけですから。
posted by メタマネ佐藤 at 22:47| Comment(0) | 日記

2017年05月20日

糸。

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昨年、ボイス21で長年キャスターを務められた、浜家さんのお話を聞いた時に。
非常に印象に残った言葉がありました。

それは、岡山出身の名誉県民であり、全日空の社長などを務められた、岡崎嘉平太さんの名言です。

「信はたて糸 愛はよこ糸
織りなせ 人の世を美しく」

たて糸、よこ糸の言葉で思い出すのは、中島みゆきさんの名曲「糸」ですね。

「縦の糸はあなた 横の糸はわたし」
二人の織りなす布は、誰かを温めるかもしれない。
誰かの傷を覆うかもしれない。
糸の巡り合わせを、人は仕合せと呼ぶ。

…世の中は、いつも厳しい話ばかりです。
少しずつ、僕らはコツコツ頑張っているはずなのに。
どうしてこんなに、息苦しく思えるものなのか。

それは多分、「自分一人が頑張っている」と思うからなのです。

生きてりゃ、いろんなことがあります。
毎回、物事はいい風に転がりません。

それでも、世の中は。
いろんな人の、いろんな頑張りによって支えられているのは確かです。

自分だけが良ければいい。
そんな利己的な人もいるのでしょうが。
大多数の人間はそうではない。

自分の家族や愛する人のために。
社会の役に立つために。
あるいは、誰かの笑顔が見たいから、苦しい毎日を頑張って生きているんだと思うんです。

人を信じるということは、自分の信用できる人だけを信じるということではなく。
自分以外の人、すべての努力や能力を信じる。
人を信じること、そのものを言うのだと思うのです。

人を愛するということも同じで。
自分の好きな人、大切な人だけに愛を注ぐという意味ではなく、人間そのものを愛する。
あるいは、社会や国を愛するという、広い意味での人間愛を指していると思います。

自分以外の誰かを信じることと。
自分の隣の誰かを愛することで。
世の中を織りなす、人の和という布を編む。

世の中は、基本的に、善意に満ちている。
実際にそうでなかったとしても、自分は善意を他者に向け続けたい。

そうして絆の「糸」を編み続け、織りなす布は。
誰かを温め、誰かの傷を癒す。
そんな美しいつながりの一助になれれば。

僕はとても仕合せなことだと思うのです。

そして、僕が今やっている、ケアマネジャーという仕事は。
糸を紡ぐ、針の役割。

まだまだだけど、自分なりの布を、頑張って織り続けたい。
そんなふうに思えたんです。
posted by メタマネ佐藤 at 19:17| Comment(0) | 日記

2017年05月16日

赤心片々

赤心片々(せきしんへんぺん)という禅語があります。

赤心とは、赤ちゃんのような純粋な心。
片々とは、余すところなく全て、という意味。

つまり、物事全てに対して、赤ん坊のような素直な心で、真心を持って接しましょう、という意味です。

人は成長するたびに、自分以外の誰かの評価や視線を気にするようになります。
自分を、必要以上によく見せようと思うと、どうしても嘘が混じったりする。
そうすると、瞳も曇って、正しく物事が見えなくなることもあるのだと思うのです。

だからこそ、赤ん坊のような、素直な気持ちで物事に取り組むことが大切だ、ということになると思うんですね。

すっかり汚いオジさんになってしまった私ですが。
せめて内面は、赤心片々で頑張りたいものです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:29| Comment(0) | 日記

2017年05月11日

赤ちゃんポスト設置から10年。

みなさん、赤ちゃんポストをご存知でしょうか。

様々な事情で、育てることができない子どもを預けることができるという「赤ちゃんポスト」。
設置当初は様々な論議を巻き起こしたものですが。
それから10年が経ち、その時の赤ちゃんたちは、今どうしているのかという、追跡取材をした記事が出ていました。

特に、その当事者である少年、ナオキ君の言葉が、とても印象に残りました。
以下、記事より引用します。

ーーーーーーーー
親が育てることのできない赤ちゃんを匿名でも預けることができる、いわゆる「赤ちゃんポスト」。
「こうのとりのゆりかご」が熊本の病院にできてから、10日で10年です。
預けられた赤ちゃんは、今どんな思いでいるのか、1人の少年が取材に応じてくれました。

「預けられた子供たちが言えない言葉とか、言えない気持ちとかあると思うので、それはみんなに伝えるというか、そういうのは大切なのではないかと」
(ナオキ君・10代・仮名)

10代のナオキ君。
「こうのとりのゆりかご」に預けられました。
里親の下で育ち、毎日楽しく学校に通うようになった今、JNNのカメラの前で初めて語りました。

10年前、熊本市の慈恵病院に開設された「こうのとりのゆりかご」いわゆる「赤ちゃんポスト」。
扉を開けるとブザーが鳴り、駆けつけた病院スタッフが保育器に預けられた赤ちゃんを保護するというものです。
これまでに125人が預けられました。

「赤ちゃんの命を救う、守るということだけじゃなくて、『赤ちゃんの幸せ、将来の幸せ』という思いを強く持ってはじめた」(慈恵病院 蓮田太二 理事長)

9日、会見でこう語った蓮田理事長。
ナオキ君は自分が預けられたということと、どう向き合っているのでしょうか。

「それも過去の記憶というか記録なので、心のどこかには持った状態でこれから大人になっていくにつれて、生活していかなければいけないかな、と」

Q.今、どんな夢があります?
「子どもと関わる仕事に就きたい。預けられた子ども以外も、悩みとか不安な気持ちを持って生活している子もいると思うので、そういう子どもたちの悩みを聞いてあげたりしたい」

ゆりかごに預けられ里親の元で育ったナオキ君は、伝えたいことがあるといいます。
「これから預けるお母さんへのメッセージというか…大人になっていくにつれて、疑問もたくさん湧いてきて、もしかしたらそういうのに悩んだり苦しんだりする子も出るかもしれないので、写真とかを一枚だけでも一緒に託す、預けてくれることによって、その子どももその時可愛がられたとか大切にされていたというのが、やっぱり目に見える形で残した方が子どもには良いのではないかと」

ーーーーーーーー

この「ナオキ君」の言葉に、私は共感するとともに、不甲斐ない自分のありさまを、恥じ入るような気持ちになりました。
10年という月日は、少年を強く、たくましく成長させているのだなぁ、と感動しました。

いろんな事情。
そういえばそうですが。
本当にいろんな理由で、親子でも、一緒にいられないことはあると思います。

仕方ないでは済まされない。
でも、どうすることもできない。
どうにかすることはできるのかもしれないが、行動を起こす勇気がない。

ナオキ君の「写真一枚」の言葉に込められた思い。
どうか、彼の人生が、これからも幸多からんことを願います。
posted by メタマネ佐藤 at 23:16| Comment(0) | 日記

2017年05月06日

捨てる、拾う。

学校の勉強を、あまり熱心にしなかった為、漢字を書くのが苦手です。

いろいろ苦手な漢字があるのですが。
今日のテーマにした「捨てる」と「拾う」って字は、字面が似てて、全く反対の意味なんで、ややこしいなぁって思いました。

象形文字的な意味があるのかなぁと思って調べたんですが。
どうやらそんな意味では無いらしい。
覚え方として、「お金を拾うときには手を合わせて喜ぶところから手偏に合わせると書いて“ひろう”」なんてのはありましたが、これは正しいルーツでは無いそうです。

ま、それはともかく。

なにかを「捨てる」って、難しいですよね。
断捨離が流行って、物も人も、余分な欲や繋がりは持たずに、シンプルに生きるっていう発想がありますが。
私みたいな物欲の権化のような人間には、なかなか実践が難しいものです。

なんというか、捨ててはいけないものまで捨ててしまっているんじゃないかと。
そんなふうに思うと怖いですしね。

反対に、拾い物をするっていうと、なんだかいやしい気持ちがするものです。
ただ、人間関係のご縁なんていうものは、むしろ拾い物をするという感覚に近いのかもしれない。

街中のゴミを拾う、というのは、素晴らしい行いですし。
街にゴミを捨てる、というのは最悪ですね。

反対語なのに、漢字はほとんど一緒。
日本語って、難しいですね。
posted by メタマネ佐藤 at 18:04| Comment(0) | 日記

2017年05月02日

目覚め。

「神について」

子供の頃、困った時は母に助けを求めた。
母は全能の神のようにボクを守り救ってくれる気がした。
だが母は1人の人だと知ってから、ボクはかわりになる神をさがした。
だがそんなものはいない。
“よりかかる”神を探している限り、ボクは目覚めることはできなかったのだ。

ーーーーーーーーー

この一節は、小泉吉宏さんの「ブッタとシッタカブッタ」の中に出てくる言葉です。
僕は、素朴ながら色々な気づきを与えてくれるこのマンガが好きで、時々読み返したりするのですけど。
改めて読み返すと、実に深い言葉ですね。

もっとも、シッタカブッタはブタさんなので、原文は「1人の人」ではなく、「一匹のブタ」と表現されているのですけどね。
…まぁ、それはともかく。

母の代わりを、よりかかる対象を探している限り、自分の足で立つことはできない、というこの言葉に、僕は非常に深い意味を感じたんです。

ましてや、この一節につけられたタイトルが「神について」ですから。
「よりかかる」のを、ここでは分かりやすく“母”としているだけで。

つまり、神であろうと、母であろうと、どのようなカリスマであろうとも。
なにかに“よりかかっている”と、一人の人間として目覚めることはできない。
すなわち、自分の足で立つことはできない、と。

そう言っているように思います。

まぁ、もっとキャッチーに捉えれば。

男性にとって、愛する女性というものは、「ママじゃないのよ」と。
甘えんぼさんは、通じませんのよ、と。

そういう話なんだと思うんですがね。
甘えているということを自覚できれば、それは甘えからある程度脱却できつつある、という意味でもあり。

いずれにしても、深い。

そう思ったのでした。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:11| Comment(0) | 日記

2017年04月28日

意識が高い。

よく、「意識が高い」ということを言いますが、どういう状態のことを言うのでしょうか?

仕事の場合で言うのであれば、仕事に取り組む意欲とか、社会人としての当事者意識とか、前向きな姿勢とか。
そういう自分を律することができる人のことを「意識が高い」というように思います。
たいていは褒め言葉として使いますね。

そして、不思議なことに。
「意識高い系」という言葉にすると、なんだか意味が少し違ってくるんですよね。

もちろん、先ほど同様にいい意味でも使うでしょうけど。
この言葉が暗に意味するのは、“自意識過剰な人”ではないかと僕は思います。

特別に優れた能力を持っているわけでも、極端なお金持ちでもないのに。
芸能人のような生活レベルを求めたり。
スーパーモデルなみの節制をしてみたり。
SNSにひたすら“リア充”アピールするなんてのは、ただの自己顕示欲ではないのかな、と思ったりします。

あとは、ひたすらキツイ論調で自己主張してみたり、批判したりとかね。
誰もそれを否定はしないのでしょうが、たぶん「ああ、この人本当はこういう人なんだ…」とドン引きでしょう。
おそらく、そういう人と付き合うときは、目に見えない膜ができると思います。

で、そういう「意識高い系」が、この業界にはかなり多いように思う。
例えるなら、次のような感じの人。

いつもいいことを言う。
知識はかなりあるようだ。
技術も高いのかもしれない。
でも、実際にやってることは、伴わない。
プライドばかり高くて、基本的な人間関係が作れない。

そういうのが、自分を“できる”と勘違いした「意識高い“系”」。
本当に意識の高い人は、グチグチ言わずに、やることやるはずですし、自分を“できる”なんて勘違いを起こしませんから。

つまり、「意識高い系」とは、「自分では正しいと思ってやっているのだけど、現実が伴わない人」という意味で揶揄されている言葉だと思うんです。
だから、本当の意味での「意識が高い」とは真逆の意味かな、と僕は思うんです。

では、本当の意味で意識が高い人というのは。

自分のやることを、誰かに見せたり、評価されようとはせず、自然に、当たり前に、自らのなすべきことに誠実に取り組める人のことを言うのだと思います。

自分の果たすべき役割に忠実である。
真摯な姿勢で取り組むことができる。

そもそも、ここでいう「意識」というのは、“当事者意識”とも言えます。
自己認識が歪んでいれば、いろいろ行動が歪んでくるのが道理。

すなわち、誠実に、素直に物事に取り組むこと、その姿勢をわすれないことが、本当の意味で「意識が高い」ということだと思うんです。


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posted by メタマネ佐藤 at 23:10| Comment(0) | 日記