2017年04月24日

被爆者の蝋人形。

2年ほど前、広島の原爆資料館に行きました。
中に入ったのは中学生以来でしたから、もう25年ほど間が空いていたことになりますが。
その当時と比較して一番思ったのは、写真がものすごく少なくなった、ということでした。

被爆者の方々の遺品や、被害状況を示す物や写真、爆弾のデータなどがたくさんあって。
整然とした資料を並べるのは、確かに勉強にはなりますが、生々しい本当の被害状況は伝えてくれないように思いました。

惨たらしく焼けただれたやけどの写真や、折り重なって亡くなった人々の写真を展示することに、色々な問題があるというのもわかるのですが。
事実を伝えるという意味からは、やはり痛々しく生々しい写真の展示は、避けてはならないと思います。
直視できないほどの悲劇が、実際に、私たちか普通に暮らす街に“起きたのだ”ということを学ばなくてらならない訳ですから。

しかも、これは人災であり。
間近に迫る脅威でもある。
だから、戦争を知らない我々のような世代にも、「きちんと伝える」ことが大切だと思うんです。

こういうことを書こうと思ったのは。
原爆資料館にある、被爆者の蝋人形の展示を中止する、というニュースを読んだからです。

焼けただれた皮膚を、両手からだらりと下げた、むごたらしい姿の蝋人形。
しかし、被曝当事者の方に言わせば、リアルではない。
「あんなおもちゃでなにがわかる」。
その言葉こそ、真実であろうと思います。

記事を読むと、色々な立場の方の意見もあるようですから、その是非についての意見は申しません。
ただ個人的な感想として、率直に思ったのは「これもダメなの?」というものでした。

むごい姿の蝋人形が、来館者になにを伝えて来たのか、ということが大切だと思うのです。
そもそも、なぜ蝋人形は設置されたのか?
そして、なぜ蝋人形の公開を止めるのか?

その本質に触れる話は、メディアの記事ではわかりません。
ただ、なにか釈然としないものを感じるニュースでしたので、ブログの記事として取り上げてみました。

皆さんは、どう思われますか?
posted by メタマネ佐藤 at 18:45| Comment(0) | 日記

2017年04月18日

幸せは感じるもの。

幸せになろうと思わないでください。
幸せをつかみに行って幸せになった人は1人もいません。
幸せは感じるものです。
ーー坂本金八ーー

名言の宝庫、金八先生。
その言葉は、まさに全ての人に“贈る言葉”。

…すばらしいですね。

「幸せになりたい」と、誰もが願います。
しかし、「幸せになりたい」と思うことそのものが、不幸であるとも言える。
今現在の状態が“満たされない”と感じているからこそ、「幸せになりたい」と願うワケですから。

金八先生が言うように、いくら幸せを追い求めたとしても、追いつけるはずもない。
「もっと欲しい」と思うことは、いつまでものどが渇いているようなもの。
カラカラに乾燥した砂漠のように、どこまでも幸せを吸い込んでしまう。
そして、幸せを実感することができない。
どれほど恵まれた環境にいたとしても。

しかし元々、幸せを感じるには、何もいらないのです。

今の自分に満足する。
今の環境に感謝する。
日々を大切に生きる。

それだけです。

もっと成長したい、と思うことは良い。
もっと欲しい、と思うから際限なく欲しがってしまう。
何かを手に入れる、所有する。
誰かの承認や愛情を求める。
いくら求めても、すべては手に入らないから、自分ではない誰かの“せい”にしてしまいたくなるんだと思います。

メーテルリンクの「青い鳥」しかり。
禅語にある「足るを知る」しかり。

じわ〜〜っと、今生きていることの幸せを実感すること、気付くことが、大切なんですよね。

でも、しんどい時にはそれを見失ってしまうこともある。
そんな時は、立ち止まって自分の大切な人の顔を思い浮かべてみましょう。

人は、どんな境遇であっても、幸せを感じることができる。
そういう願いが、金八先生の言葉には込められているように思えるのです。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:58| Comment(0) | 日記

2017年04月13日

行住坐臥。

行住坐臥とは、仏語で日常の立ち振る舞いのこと。

行く、すなわち歩く。
住は、止まること。
坐臥は、座ることと寝ることを言います。

どれほど多忙であろうとも。
日常の立ち振る舞いを振り返ることを忘れてはならない、という教えでもあるわけですが。
自らを律することは、いかにも難しい。

なぜならば、自分に甘いからです。

自分の好きなことには一生懸命になれるのですが。
自分の嫌いなことや、気の進まないことには頑張れないのが、自分の良くないところ。

これではダメだな〜と思いますが。
なかなか行動を改めることに繋がらない。

自らの日常生活を振り返り、律することそのものが、仏教では“修行”というわけですが…。
だらけてしまうんですよね、やっぱり。

身を正す、とは言いながら。
なかなかままならぬ。

簡単そうなことほど、意外と難しい。
posted by メタマネ佐藤 at 23:23| Comment(0) | 日記

2017年04月10日

間違いない。

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ブログのネタを探して、時々ネットニュースなどを見るのですが。
そこでたまたま見つけたこのメッセージ。

どこの誰が言ったものかわかりませんが。
実に説得力のある、熱いメッセージだと思いませんか?

努力して後悔した人を見たことがない。
確かにその通り。

努力したからといって、必ず望んだような結果が得られるわけではない。
ただ、目標に向けて努力したことや、日々の活動は自分を成長させてくれるもの。

物事は結果が全てでは無い。
経過にこそ意味がある。
努力したことや苦労したことは、必ず自分の中に経験として蓄積されている。

苦労することは、自分ひとりの力ではどうにも避けられないこともあるが。
努力するかしないかは、自分次第で決められる。
短い時間の中では、たいした違いにはならないが。
日々の過ごし方の違いは、何年もの経験の差となって、大きな実力の開きを産む。

練習して下手になる人もいない。
勉強して馬鹿になる人もいない。

なにに対して努力するかを決めるのも自分次第。
勉強なのか、練習なのか、それとも流行の先端を追い求めることなのか。

何を選ぶにしても、自分でそれを選び、能動的に取り組んだかどうかが重要だ。
取り組んだことに対して、振り返って考えることが重要だ。
その場の雰囲気に流され、ただぼんやりと時間を浪費するのは、あまりにも勿体無い。

何かをして変わった人はいても、何もしないで変わった人はいない。

まさに、その通りだと思う。

さあ、始めよう。
posted by メタマネ佐藤 at 20:26| Comment(0) | 日記

2017年04月08日

春来草自生。

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「はるきたらば くさおのずからしょうず」と読みます。
禅の言葉で、「草は春になれば自然と芽を出すもの。人間も同じで、しかるべき時が来れば自然とうまく行くようにできている」という意味です。

そうは言っても、なかなかうまくいかない事だらけのように思えますが。
それは、まだ「芽を出す時期ではない」ということなのかもしれない。

やるべきことをやっていれば、自ずと結果はついてくる。
焦る必要はない。

そういう焦りは、しかし自分を成長させる意味では重要なのかもしれません。
なぜならば、今の自分に満足していないからこそ、努力しようと思えるからです。
特に、勝負の世界に生きているような人や、何かを極めようとしている人たちにとっては、「そんなのんびりとした話ではない」と感じられるかもしれない。

でもね。

何もしないで春を待つってことじゃないんです。
日々、やるべきことをやっていれば。
自ずと、花開く時が来る。

それを「願う」のではなく「信じる」。

大切なのは、日々をダラダラと過ごすことではなく。
意味のある毎日を過ごすこと。
意味のある日々だと実感しながら過ごすこと。

そうやって、水と肥やしを与え続けていれば。
春は、きっとやってくる。
posted by メタマネ佐藤 at 14:34| Comment(0) | 日記

2017年04月06日

介護福祉士の合格率急上昇に思う。

先般、介護福祉の資格試験合格発表がありました。
その合格率は、驚きの72%オーバー。
過去の試験で最も合格率が高かった年と比較して、8%あまりも高いのです。
これはある意味、異常ですね。

しかし問題なのは、その合格者数。
合格者数は過去最低の約5万5000人。
なんと、一年前と比較して、約4割も少ないのです。

このことからわかるのは、介護福祉士の受験生が大幅に減少したという事実。

これだけ少子高齢化が叫ばれている中で。
支えるべき担い手が不足すると言う社会問題が明らかな中で。
増やさなくてはならないはずの介護福祉士が、減少するのはなぜなのか。

その大きな要因と考えられているのは、介護福祉士実務者研修の必修化。

介護福祉士の国家試験を受けるためには、実務をしながら450時間の実務者研修の受講が必修となり。
それだけ大変な思いをして、実務者研修を受けて、介護福祉士の国家試験に受かったとしても、給料はたいして上がらない。

そうすると、大金を払って実務者研修を受講するのが「馬鹿らしい」と考える人が多くなり。
事業者側としても、介護福祉士を必ずしも持っていなくても、介護職としては雇用できるわけであり。

じゃあ、「介護福祉士一体何なの」となる。

“だから”受験生が減ったんじゃないですか?
…そう思わざるを得ないワケです。

といって僕は、介護福祉士実務者研修を否定するつもりはないです。
なぜならば、介護福祉士の実技試験を行うよりも、研修をやる方が、質の向上という観点で建設的だからです。

実務者に対しての研修を必修化して、介護職員の質を担保する。
それは正しいと思う。

質の担保無くして、量を確保することは危険。
介護福祉士という資格の地位向上のためにも、資質向上は当前であり、直接指導できるスクーリングの機会をもうけることが、大変重要だとも思っています。

ただ。

なぜ450時間も必要なのか、ということです。
過酷な実務をやりながら、それだけの時間を捻出するのがいかに困難か。

そして、それだけ時間を要するからには、費用もかかります。
介護福祉士を取得し、かけた費用に見合う報酬が得られるのか、というところにも疑問がある。

ただ、実務者研修を課したことにより、“記念受験”をする人は明らかに減ったでしょう。
今年度から、実務者研修修了生でなければ介護福祉士そのものが受けられなかった訳ですから、ここ数年で駆け込み受験をする人が多かったのだろう、とも思います。

故に、合格のハードルを下げなくても、合格率が上がった。
これは、喜ばしいことかもしれません。

私は、人が足りないからといって、誰でもかれでも人をあてがえばいい、というものではないと思ってます。
そういう意味からいえば、受験生の質が上がり、合格率が上がったというのであれば、喜ばしくもありますが。
これだけ受験生が減っている現状がある、というのは、単純に政策の失敗ではなかろうかと。
そう思わないでもありません。

問題の本質は、これからの“担い手不足”をいかに解消するか、というところが最重点ですから。
資質向上は大いに結構ですが、「呑気」な話をしているのではないかな、という気もする。
制度設計する人たちは、ある程度生活にゆとりがあるから、現場の介護職の持つ切迫感に、理解が欠けてるんじゃないだろうか。

いずれにせよ、時計を戻すことはできません。
一旦決めたハードルを引き下げることも、すべきでないでしょう。

とすれば、我々の取る道は一つ。
専門性を高めて、社会からの信託に値する、資格への付加価値を高める。
これしかありません。

大変なようだけど、それは単純な原理で規定できる。

介護の仕事は面白い。
介護の仕事は奥深い。
介護福祉士は、そのプロフェッショナルだと。
そう声を大にして言えるように。
研鑽し続けることで、前に進むしかない。

それだけです。

そのためにも、我々は謙虚でなければなりません。

話が脱線しましたが。
要するに、介護人材を増やさないと話にならないよってことです。
posted by メタマネ佐藤 at 22:09| Comment(0) | 日記

2017年04月04日

忖度。

最近のニュースで、よく「忖度(そんたく)」ってのが出て来ますが。
なんか、良くない意味で使われてますよね。

本来、忖度とはどういう意味か。

デジタル大辞林によれば、“他人の心をおしはかること。「相手の真意を忖度する」”とあります。

つまり、何を言ったかではなく。
相手の態度などから言いたいことの真意を“察する”という意味ですね。

いかにも日本人らしい、配慮とか思いやり。
これはとても大切なことだと思うのですが。
これを、都合の良いように使われたのではたまったものではない。
自分はそんなつもりがないのに、相手に良いように捉え違いをされてしまうということですから。

そして、森友学園の問題では、この“忖度”という言葉が使われていますが。
そもそもあのK池さんは、まともに話のできる相手じゃないように思うのは、私だけなんですかね?

そういう人の“忖度”する内容なんて、自分の利に叶うように、適当に解釈するに決まってるじゃないですか。
あれでよく、日本の心を教えるなんてことが言えるものだな、と思いました。

人の気持ちを推し量るには、相手の気持ちになって考えることが大切です。
人の気持ちがわからない自己中心的な人に、そんな器用なことはできません。

自分の都合がいいように、相手の心を「忖度」する。
そういう時には「忖度」という言葉は使わない。

例えるなら「我田引水」とか。
「無理が通れば道理がひっこむ」とか。
そう言い方の方が正しい。

そして私は、思いました。

国家予算を使って、国会の場で何をやっているのか、と。

国会の開催費用は、1日およそ3億円だそうです。
あのバカバカしい口舌を聴くために、そんな大層な金額がかかるのかと思うと、実に虚しい。

テレビでも繰り返し取り上げられているところなどから見ても、国会空転の損失額はその数十倍以上でしょう。

さらに言えば、ああいった異常な教育が、「日本の今」と海外に捉えられることによるデメリットが大き過ぎる気がするのです。
日本では、未だに過去の戦争から学んでいないのか、と思われるんじゃないですかね。

とにかく、全部含めてくだらない。

変人の演説など、聞きたくない。
国会でくだらない話をしないでほしい。
国有地取得の経緯以外、長時間使って聞くべき話は無いはずだ。

私の気持ちとしてはそんなところですが。

これも、変なふうに「忖度」されたら、嫌ですね。


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posted by メタマネ佐藤 at 22:03| Comment(0) | 日記

2017年03月31日

敬語は難しい。

メールのやり取りで、よく「了解しました」という言葉を使いますよね。

僕も何気なく使っていたのですが、ふと「了解って、ひょっとしたら上から目線の言葉なんじゃないかな」と思いました。
だって、お伺い立てることに対して「了解」って意味ですもんね。

そう思って、ちょっと調べてみたら、「了解しました」という言葉は、目上に対して使うべきではない、と書いてありました。
言うのであれば「かしこまりました」か「承知いたしました」がよい、とのこと。

これって、当たり前の常識なんですね。
いい歳こいて、そういうことにも気付かずにいたのは恥ずかしいのですが。
でも、そういうことに疑問を持たずにやってるのが、自分の実情なんだな、と思いました。

そもそもこれに気付いたのは、たまたま同僚がメールの返信に「かしこまりました」と書いてあるのを見て、「アレ?俺ってなんか失礼かも?」と感じたから。

年取ると、こういう基本的なことができていなくても、誰も指摘はしてくれないものだし、これからも気をつけないといけないな、と改めて感じた次第です。
posted by メタマネ佐藤 at 18:51| Comment(0) | 日記

2017年03月27日

人は、人の傘になれる。

人は、人の傘になれる。

会社の中も
学校の中も
電車の中も
家の中でも、
雨が降っていた。

自らの命を絶つ。
その多くは「うつ」などの心の病によるもの。
心の病の早期発見、治療が、
命を守ることに
繋がります。

眠れない日が続いている、
いつになく元気がない、
ずっと疲れているみたい。
あの人の「いつもと違う」は、
心の雨を知らせて
いるのかもしれない。

大切な人の
「心の雨」に
気づいてください。
心を守り、
自殺を防ぐ。

ー愛媛県の広告より

3月は自殺対策強化月間です。

例年、3月はもっとも自殺者の多い月。
だからこそ、多くの人に関心を持って頂く必要がある月でもあります。

どこか、遠い話のように思える自殺の問題ですが。
決して特別なことではなく。
すぐ身近なところで、人知れず起きている。

多くの場合、心の病はあきらかな病と見えずとも。
人知れず苦しみを抱え、涙を流しながらも、気丈に振る舞っていたりするもの。

いつもの様子と、何か違う。
疲れがたまっているように見える。
真面目に頑張りすぎているその人に、そっと心の傘を差し出すことは、簡単なようで難しい。

自分のしていることや、身の回りで起きていることを思い返しても。
僕は鈍感で、なかなか気付けない方だと思います。
そんな時は、やっぱり難しいなぁ、と思います。

それでも、できるだけ、だれかの傘になれるように。
自分にできることを、できる範囲で。

そっと傘を差し出せるような自分でありたいと思うのです。
posted by メタマネ佐藤 at 18:35| Comment(2) | 日記

2017年03月22日

無敵。

星を取ると、マリオは無敵になります。
いいよね、あんな星があったら。

この前から「水戸黄門の印籠がほしいな」とか、そんな感じのことばかり言ってますね(笑)

…なんか疲れてる?

いやいや、そういうつもりじゃないんです。
いつも思いついたことを書いてるだけなんで。

今日のテーマは、「無敵」ってことについて考えてみました。

僕は、無敵にも、いろいろ種類があると思うんです。
現実には、マリオに出てくるような「星」はありませんから。

マリオのように、正面からぶつかってくる相手を弾き飛ばすようなやり方は、現実ではあまり良くないですよね。
あるとすれば、「無理が通れば道理が引っ込む」という方法論。

とにかく自分の言い分を曲げない、負けを認めない。
これはこれで、“無敵”です。

だけど、周りから嫌われます。
「あの人には何を言っても無駄」と思われると、結局損をすることが多くなります。

つまり、無敵であると同時に無友。
面と向かって悪く言われなくても、ひたすら陰口を叩かれることになるでしょう。
これは気をつけたいものです。

対等な関係であれば、こうなる事はあまりないでしょうが。
例えば、上司と部下の関係性などでは、時々こういうことが起こります。

上司の立場としては、部下の気持ちに鈍感になりやすいもので。
この状態を放置していると、人間関係はどんどん希薄になります。

そして、ここからもう一つの、良い意味での「無敵」状態について。
それは、一言で言えば「敵を作らない」という方法です。

利害関係が絡むと、なかなか難しいところはありますが。
それでも「社会にとって必要なこと」という、全体的な観点から考えるようにすれば、「敵を作らない」という発想で動くことは可能です。
民主主義かつ博愛主義、とでも言いましょうか。

他者を蹴落とすようなやり方と言うのは、結局誰かの恨みを買います。
そうなると、自分にとっても巡り巡って大きなマイナスになる。

だからこそ「敵はいない」と割り切って、より強い味方になってくれそうな人と、関係性を深めていくように意識するわけです。
そうやって出来上がる「人脈」には力がありますから、結果としてあなたを「無敵」の状態へと押し上げてくれるでしょう。

なかなか理想通りにはいかないかもしれませんが。
大切なのは「敵を作らない」ということ。

そうすれば、無敵になれる「星」は、必要なくなりますからね。
posted by メタマネ佐藤 at 21:33| Comment(0) | 日記

2017年03月20日

ヤバイ禁止令。

ある中学校でヤバイと言う言葉を使ってはいけない、という禁止令が出たことが話題となっています。

かっこいい、良い、悪い、すごい、感動、困った、緊張、寒い、テンション上がる、嬉しい、悲しい、気まずい、うまい、怖い、暑い、冷たい、かわいい、高い、安い、楽しい、優しい、汚い、まずい。
これらの表現は、すべて“ヤバイ”のひと言で表現が可能になるそうで。
形容詞の語彙力が育たなくなってしまう、との理由からだそうです。

これを見て思ったのは。
“ヤバイ”ってのは、基本的に“すごい”って意味で使われてるんじゃないのかな、と。

すごくカッコいいから「ヤバイ」。
すごく嬉しいから「ヤバイ」。
すごく高いから「ヤバイ」。

その一言で終わってるんじゃなくて、文脈からヤバイの意味を推測する必要があるので、実はけっこう高度なコミュニケーションスキルが求められてるような気もするのですが。
確かに、「語彙力」という点ではマイナスかも。
大人の世界では、とても伝わりそうにありませんしね。

ただ、いつの時代も、若者たちの使う流行り言葉は批判されるもの。
言葉を進化させるのは、若者たちの柔軟な発想が源泉だったりします。
ひょっとすると、頭の固い大人たちに、理解できないだけなのかもしれませんね。
posted by メタマネ佐藤 at 18:44| Comment(0) | 日記

2017年03月15日

僕たちは給付管理事務員じゃない。

以前、「タコツボケアマネ」という記事を書いたことがありましたが、今日の内容はそれとほぼ同じ趣旨。
宜しければ、そちらも合わせてお読みいただければと思います。

本日の内容は、その時よりさらに一歩踏み込んで、直接的なことを書きます。
この話は、自己反省も込めて書くので、読んで気を悪くしないでくださいね。

ズバリ。
今の介護支援専門員は、ケアマネジャーではなく、給付管理事務員と化している人が多いと思います。

細かすぎる制度解釈。
証拠残しの経過記録。
実地指導で指摘を受けないためのコンプライアンス。

こうなるのもわかる。
ミスがあったときに、ケアマネジャーは自らの責任が問われる仕事ですから。

だけどね。
僕らの仕事は、介護保険の事務処理を間違いなく行うことが本質ではない。
ケアマネジメントをやることが本質なんです。

長年ケアマネジャーをやっていると、この点に対する意識が薄らいでいく気がする。
自分の仕事には、いつも問題意識を持っておきたい。
僕は、常々そう思っているだけに、事務的なことだけを淡々とやって、仕事をやっている気になっていないかな、と嫌な気持ちになるのです。

月に一回のモニタリングは、ハンコをもらいに行くだけ。
世間話だけして、状態の把握もできてない。
インフォーマルなんて、関わる意味がわからない。
…そんな仕事ぶりでは、ケアマネジメントを担う専門職とは言えない。

書類作って、ハンコもらって、給付管理するだけなら、ただの介護給付事務員。
ケアプランさえきちんと立てたら、あとは非専門職がモニタリングに行っても一緒ってことになる。
これはあまりにも情けない話だと思うんです。

こうなってしまった原因はいろいろあると思いますが。
最大の要因は、多すぎる事務処理や細かい規則、それを守らせるための、ストレスフルな実地指導にあると思っています。

実地指導は、長年“実地指摘”でしたからね。
減算や返還、ひいては指定取り消しなんてことになってしまっては責任を問われる…と、ケアマネの恐怖心を煽ってしまっていた。

一生懸命真面目にやっても報われない。
そんな役回りが嫌で、ケアマネジャーから離れた人は、僕の周りにもたくさんいましたから。

もちろん、介護給付適正化の観点から、おかしな所の指摘を行うのは重要ですが。
本質的な業務指導というのは、書類を見ただけでは不可能です。

ケアマネジャーが集まると「ウチではこんな風に指導で言われた」「え〜〜!ウッソー!」みたいな話が始まります。
仕方ないと思うけど、これは本当に意味がない。

いや、指導官が指導したのは、あなたの仕事に対してでしょ、と。
言われたことだけを針小棒大に言うと、とんでもない誤解を招きますよ、と。
ただ、指導が指導として正しく機能していなかった、ということは言えるでしょうね。

でもね、最近は指導の質は高くなってると思います。
それよりも、肝心のケアマネジャーが、タコツボ化して他の専門職の邪魔になってるケースが増えてきたかもしれん、と思うようになったんです。

タコツボ化してしまうのも、なんとなくわかる。

人間の能力には限界がある。
規制ばかり増やせば、それを守るために必死になる。
外のことに目がいかず、視野が狭くなる。
いろいろやりたいけれど、自分の責任を放棄してまで取り組むことができない。

単純に、やることが多すぎるってわけです。
ケアマネの仕事内容は、自己管理が重要ですから、どうしても抱えきれないところは、削ぎ落とすようになる。
だから、できる範囲のことしかやらなくなるんですね。

そして、世論は次のように動いています。

重症患者には、疾病管理ができる看護師によるディジーズマネジメント。
虐待等の困難事例に対しては、権利擁護や法的知識のある社会福祉によるケースマネジメント。
要支援者に対しては、運動、栄養、口腔衛生の観点からの、多職種によるセルフケアマネジメント。

このように、ケアマネジメントは、ケアマネジャーのみによって担われるのではなく。
多職種共同によって担われるようにすべきである。

では、その中でケアマネは何をすべきか。
チームをまとめることと、ケアマネジメントサイクルの良循環を回すことに専念すべし、となっている。

果たして、今後我々は、ケアマネジメントを自らの職域として守ることができるでしょうか?

ちょっと厳しいですけど、事務員化してる人は、そのままプランナーとして件数を沢山こなしてもらうか、現場の介護職に戻ってもらうしかないかもね、と思ってます。
それはそれで、ひとつの答えだと思いますしね。

個人的には、ケアマネジャーと呼ばれる以上は、ケアマネジメントを行う専門職として、自らの職域を守り続けたいものだ、と思うのです。
posted by メタマネ佐藤 at 18:15| Comment(0) | 日記

2017年03月13日

許すこと。

弱いものほど相手を許すことができない。
許すとは、強さの証だ。
(マハトマ・ガンディー )

非暴力・不服従を唱えて、インドを200年にわたる植民地支配から解放したガンディー首相。
20世紀で最も優れた指導者の1人と言われる人物ですね。

この「マハトマ」というのは本名ではなく、「偉大なる魂」を意味する尊称なのだそうです。
こういったところからも、ガンディーがいかに尊敬を集めているのかがわかりますね。

ガンディーは若かりし頃、南アフリカの公民権運動に弁護士として参加しています。
当時の南アフリカといえば、悪名高いアパルトヘイトの真っ只中。
彼の活動がどれほどの困難さを伴ったか、想像に難くありません。
その戦いの中で、「非暴力・不服従」の思想は生まれたと言われています。

インドに帰国後、彼はイギリスからの独立運動を指揮するようになる訳ですが。
何も持たず、ただ「服従しない」という姿勢のみをもって、暴力による支配に立ち向かいました。
当然、幾度となく彼は不当に投獄されたり、処罰や弾圧に苦しめられますが。
やがて、その思想や人格に惹かれ、協力者が次々に現れ、大きなうねりとなってインド独立へと繋がって行ったのです。

このとき、ガンディーがインドに帰国してから、実に32年が経過していました。

それだけ長い間、「非暴力・不服従」を貫き、圧倒的な力を持つ支配者に立ち向かうということが、いかに勇敢なことでであるか。
私は冒頭の言葉に、ガンディーの“強さ”が現れているように思うのです。

彼は、インド独立の翌年に暗殺されてしまいます。

3発の銃弾を胸に浴びた時。
ガンディーは額に手を当てる動作をした、といわれています。

この動作、イスラムの風習で「あなたを許す」という意味なのだとか。
死の間際、自らを殺そうとしている相手をも許す。

とてもそこまではできませんが、彼の命を賭けた活動とメッセージは形となり、インドの発展に繋がっている。
そのことを思うとき、私はガンディーという人間の偉大さを、改めて感じるのです。
posted by メタマネ佐藤 at 19:48| Comment(0) | 日記

2017年03月09日

バンザイクリフ。

皆さんは、サイパン島にある「バンザイクリフ」をご存知ですか?
これは日本人の抱える、大きな“負の遺産”のひとつ。

第二次世界大戦の末期。
アメリカ軍に攻められたサイパン島の住民たちは。
サイパン島の北にあるマッピ岬に追い詰められ、高さ約80メートルもの断崖から、次々に身を投げ、集団自決をしました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれ、アメリカ軍に投降することなく、死を選んだわけです。

その際に「天皇陛下万歳!」と叫びながら、多くの人々が亡くなっていったことから、「バンザイクリフ」と呼ばれるようになったのです。
サイパン島の戦没者は、兵士、民間人を合わせて5万5千人。
このバンザイクリフなどで集団自決した人々は1500人程度はいただろう、と言われています。

なぜこのような悲劇が生まれたのか。

それは、アメリカ軍が捕虜となった日本人を惨殺する、という情報が日本人の間に流れていたからだと言われています。

「鬼畜米英」の四字熟語は、戦時中の合言葉でもあった。
捕虜にした日本人の首を切って、鍋で煮て食べる、とか。
子供を大人二人掛かりで股裂きして殺した、など。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉には、「捕虜になることが恥ずかしい」ということでなく、むごたらしい拷問を受けて殺されるというように、「辱められる」ことを恐れて「ならばいっそ、潔く死んで天国に行こう」という発想だったのではないか、と言われています。

そんな誤解を生んだもとは、戦意高揚のための、国策としての教育とプロパガンダ。
バンザイクリフで、日本人を集団自決に追い込んだのは、他ならぬ“日本人の美徳”という強制力にあったのではないかと考えられるわけですね。

よって、GHQはこれを封印したわけです。

さて、翻って。
最近話題の、とある幼稚園。
教育勅語を諳んじる園児たち。

教育勅語について、詳しく述べることは避けますが。
その最終項目は、このようになっています。

12.一旦緩急アレハ 義勇公ニ奉シ 以ッテ天上無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
(国に危機が迫ったなら 国のために力を尽くし それにより永遠の皇国を支えましょう)

戦後の日本国憲法においては、思想及び良心の自由は、何人たりとも束縛を受けるものではない。
どのように思うかは、皆さんにお任せしますが。

私は、あのような学校は、現代の日本には存在して欲しくない、と思わずにはいられないのです。
posted by メタマネ佐藤 at 23:26| Comment(0) | 日記

2017年03月07日

ネタ詰まりかな…。

このところ、あんまりブログの更新ができていませんでした。
いつもメタマネブログを楽しみに読んでくださっている方には、大変ご心配お掛け致しました。

別に体調が悪いとか、そういうことでは無いのですけれど。
ちょっとネタに詰まってる感じで。

書けるときには結構いろいろ思いつくものなんですが。
一旦筆が止まると、なかなか書けなくなってしまうもので。

もともとは、ほとんど毎日更新して頑張っていたのですが。
それが2日に1回になり、3日に1回になり。
ついには更新頻度が1週間に1回程度。

…うーん、これではいかん。

ちょっと気持ちを入れ替えて。
毎日とはいかないまでも、週に3日ぐらいは更新していきたいものです。

もともとですね、何か記事を見つけて書くようにすると言うのは、自分自身へのトレーニングのつもりでやっていたことですから。
この「自分に甘い感じ」が、今の自分の脇の甘さに通じているような気がします。

ネタが煮詰まっているのは確かなんですけど。
それはそれなりに、やりようもあるんじゃないかと。

そんなふうに考えたりしています。

うーーむ。
明日からも頑張ってひねり出さないとね、
posted by メタマネ佐藤 at 22:50| Comment(0) | 日記

2017年03月01日

能力の限界。

人間の能力には限界がある。

100メートルを3秒で走ることはできないし。
寝ずに一ヶ月過ごすこともできない。

使える時間は、有限です。
誰にとっても一日は24時間。

人間には限りない可能性がある。
それは確かにその通りだと思うのですが。
それにしても、「無限」ではない。
どこかには、リミットが存在するはずなのです。

ただ、今日私が言いたい事は。
「だから仕方がないよね」と言う話ではない。

自分で決めている能力の限界は、本当に限界なのかということ。
そこに疑問を持つことが大事だ、と言いたいのです。

たとえ能力の天井が決まっているとしても。
その中で、どこに力を振り分けるのかを決めるのは自分自身な訳です。

例えば。
「自分には、この仕事量で限界」と思うのか。
「今の自分には、この仕事量で限界」と思うのか。
この違いは大きい。
もちろん、単純に量の問題でなく、質においても同様で。
特に、その仕事に熟練するほどに、質は向上していかなくてはならない。

つまり、クオリティとキャパシティ。
このふたつは「ここまで」と自分で決めてしまったら、それ以上は向上しない。

クオリティを向上するためには、慢心せず常に学び続け、わずかでも自らの仕事に還元し、向上させる意識を持たねばなりません。
その為にも、自らを振り返り、フィードバックをもらったりすることが大切なのです。
変に自信を持っていると、この過程を疎かにしてしまうので良くないわけです。

キャパシティを広げるには、自らの業務能力を向上させることと、効率を見直すことです。
前者は資格を取るとか、パソコンのスキルを身につけるとか。
たくさんの仕事をひたすらこなして、対応力をつける、という方法もありますね。
後者は机を整理したり、書類を見直したり、削れる手間を削る、といったことがあるでしょう。

このような意識が重要である所以は。
考え方や心掛けというのは、その瞬間だけ見れば大した違いには見えないものですが。
長い時間を通してみると、到達点には大きな差ができるからです。
それは「生き方」の違いといっても良いほどに。

だから、自分の能力に対して、低いところで限界点を決めないことが大切だ、ということになります。

ただ。
もしも、両手いっぱいに、抱えきれないほど重荷を抱えて、潰れてしまいそうならば、この限りではありません。
うつ病になってしまうのは、こういった状況から抜け出すことができない、投げ出せない責任感の強い人ですから。

それでも投げ出さずに、頑張り続けることができるならば、それは大きな成長の機会と捉えることもできます。
無理はいけませんが、そのあたりのバランスは、とても大切だと思うんですよね。


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posted by メタマネ佐藤 at 18:13| Comment(0) | 日記

2017年02月25日

AI置換。

技術の進歩って凄いですよね。
なんだかだんだんついていけないような気がしてくるのは、私が歳をとったせいなのでしょうか。

そんな中、こんなことが言われています。
AIが、どんどん進化して、人間の仕事がコンピュータに奪われる。

野村総研が出したデータによれば、将来的に人間の仕事の49%はAIに置換されるそうです。
確かに、人間のわざわざ手を煩わせなくてもパソコンに任したほうがよほど正確にこなしてくれることは多いですし。
的確な判断も出してくれそうですもんね。
少子高齢化で今後はどこも人手不足ですし、ちょうどいいかもしんない。

そんな中。

ケアプランの作成をAIに任してはどうかという話が上がっています。
他の専門職に得意分野はお任せするってのなら分かるのですが、パソコンに仕事を奪われるのかと考えると、ちょっと複雑。

でもね、ケアマネジャーの仕事は多分AIには無理なんじゃないかと思ってます。

だって。
生活するってことには、多様な要因が絡み合いすぎますからね。

AIが情報収集するには、入力しなくてはならない情報が多すぎるんです。
また、人間の感情や、生活歴、価値観等はパソコンに容易に判断できるものではないと思います。
よって、全ての過程においてケアプラン作成の仕事をAIが担う事は困難だと考えられます。

しかし。
疾病特性やADLの状況などから、ある程度のプランの基礎が作られるようになるかもしれません。
程度を踏まえ、AIがドライに必要なサービス量を分析し、基礎プランを作成する。
そうすれば、今のような「言ったもの勝ち」のデマンズプランは組めなくなるでしょう。
そう考えれば、悪くないかもしれません。

ただ、障害特性や家族の背景因子、虐待の有無などに配慮することは、AIにはできないでしょうし。
そういった情緒的な部分を、人間が対応することになるのではないか、と思います。

果たしてどうなるでしょうね。
すべての仕事は置き換えられないとしても、ある程度の仕事がAI置換される事は充分あり得ます。

その時も、私たちは胸を張ってケアマネを続けることができるでしょうか?
機械に仕事を乗っ取られないためにも、自らの仕事に誠実に向き合いましょうね。
posted by メタマネ佐藤 at 17:55| Comment(0) | 日記

2017年02月23日

印籠。

「この紋所が目に入らぬか!」
で、バァーンって印籠が登場。

水戸黄門の旅は、いつも爽快です。
あんな印籠があったら、さぞかし気持ちがいいだろうなぁ、と思います。

そんなことを考えていたら、ふと気になった。
「印籠」って、そもそもなんやねん?

ちょっと調べてみたら、印籠というのは要するに薬入れの事なんですね。
いわばピルケースを、ズンとつきだしたところで「?」という気もしますが。
そこは三つ葉葵の御紋の力。
今の世で例えるなら、警察手帳や弁護士バッジみたいなものかな。
でも、黄門様の印籠には、そんなものよりよっぽど権威があるでしょうからね。
ひれ伏すのも当たり前って感じです。

でもね、ちょっと思う。
黄門様のお話って、結構ひどい話なんじゃないかって。

悪代官がよく出てきますけど、あれって各地の警察署長とか議員さんみたいなものじゃないですか。
それが、地域の悪徳商人と結託して、善良な市民を苦しめているわけですよね。
で、黄門様一行が散々ぶん殴って懲らしめた後は、印籠出して、いわばパワハラ。
「へへ〜」ってなった後日談は語られないけど、当時の刑罰って、さらし首みたいに超厳しいじゃないですか。
まぁ、悪人たちの末路ですから、そんなもので良いのかもしれませんけどね。

でもな〜。
そんなこと言いながらも、やっぱ印籠が欲しいんですよね。

だって、いろんな人がいるんだもん。
「このケアプランが目に入らぬか!」的な。
まぁ、そういう感じで仕事やっちゃダメですなんけどね。

時々、そういう印籠かざすようなケアマネさんの話も聞きますが。
本物の黄門様に成敗されてほしいもんだと思います。

…案外、自分が成敗されたりしてね。
posted by メタマネ佐藤 at 22:55| Comment(0) | 日記

2017年02月20日

顔色。

顔色を窺いながら話をすると、うまく相手に想いが伝わりません。

なぜか。

顔色を窺っていることが、多分相手にバレているんです。
挙動不審な感じが伝わってしまってるんですよね。

「なんで自分に、そんなに気を遣わないといけないの?」
そう思わせてるんじゃないでしょうかね?

“気を遣われる” = 本音で話せない関係。

そこから受ける印象は。
腫れ物に触るような。
本心を隠すような。
一定以上には近づかせないという、拒絶を示す態度。

実際のところはそうでもないかもしれない。
だけど、身近な相手に拒絶されているとしたら、それは本当に辛いことだと思いませんか?

でもね。

顔色を窺ってしまう、ということには。
それなりの理由があると思うんです。

部下は上司のご機嫌を窺ってしまう。
それは、不興を買って自分の評価を下げたくないからかもしれないし。
単に怒られたくないからかもしれない。

ある程度、地位のある人と接するときには。
顔色伺うような態度になってしまって当然とも言える。
僕らの仕事をしていて一番気を使うことが多い相手というのは、多分お医者様だろう。
もちろん、気さくな先生もいらっしゃるけどね。

でも、一番気をつかうのは。

普段からカリカリしてたり、気分屋の人と接する時。
どうしても相手の反応に振り回されてしまうので、顔色を窺わざるを得なくなってしまう。
普段なら、普通に話ができることでも、気分次第で聞いてもらえなくなる可能性がありますからね。
これは本当に気を付けたい。

かく言う私も、時々「気を遣われているなぁ」と思うことがあります。
それは、外部のサービス事業者が営業にこられたとき。
サービス事業者の人にとって、ケアマネジャーと言うのは相当気を使う相手だと思いますから。
私自身は全然大したことはないけれど、それなりに立場もあったりするし。

で、顔色を窺うような態度に接するたびに、「ああ、自分はまだまだだなぁ」と思う。
相手に顔色を気にさせてしまうようでは、二流三流だな、と自分で思うんです。

だって、ケアマネジャーの仕事は、皆さんから情報が上がって来なければ、良いサービスにならないですから。

では、相手に自分の顔色を窺わせないようにするには、どうすればいいでしょう?

僕が心がけているのは、肩の力を抜くことです。
ちょっと不真面目なくらいで丁度いい。
相手に壁を作らせないようにするために、できるだけそう心がけています。

でも、自分に余裕がないときは、できなかったりするんですよね。
なかなか思うようにはいきません。

結局のところは、あまり人の顔色を気にしない方がいい、ということかもしれません。


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posted by メタマネ佐藤 at 19:56| Comment(0) | 日記

2017年02月18日

影響。

過去と他人は変えられない。
いまここから始まる未来と自分は変えられる。
ーーエリックバーン

この言葉は、私自身の座右としている言葉ですが。
この中にもあるように、他人の考えを変えるということは、なかなかできるものではありません。

指示を出し、自分に従わせることはできるでしょうが。
それは「他人を変える」ということではない。

ただ、他人は変えられなくても、影響を与えることはできるのかな、と思います。
良い意味でも、悪い意味でもね。

悪い影響にも色々ありますが、これは比較的簡単。
悪い影響を与えるには、他人をディスれば良いんです。

「めんどくさい、やりたくない、そもそもおかしいと思ってた。」
そもそもおかしいと思ってた、という人には「じゃあ、あなたの思うように、責任を持ってやりなさい」と言ってあげましょう。
毒舌家の人気が出るのは、自分の発言に責任を持つからです。
人の後ろから石投げるような卑怯者は、人前に晒さないといけません。

一方、良い影響を与えるのは、とても難しい。
そもそも、相手に聴く意思がなければなりませんし。
それを可能にするのは、普段からの関係性。
共感を持って迎えられるような、信頼関係がなければ、そもそも成り立ちません。

普段からの振る舞いを見られる、ということもあるでしょう。
「あなたはなかなか良いことを言っている。でも、やってることは違うんじゃない?」
そう思われると、どんなに良い言葉も空虚になります。
そもそも人間のやることに完璧はあり得ないのですが、普段からの姿勢がポジティブか、ネガティヴかという違いが、言葉に力を持たせるのだと思うのです。

また、良い関係性を深めるためには、関係性そのものを太くしなくてはなりません。

その方法はふたつあり。
ひとつは胸襟を開き、素直に向き合うこと。
いわゆる自己開示。
もうひとつは、他者の意見や思考を尊重すること。
プラスのフィードバックです。

こうしたことが積み重ねとなって、他者に良い影響を与える。
もちろん、自分もその関係性の中から良い影響を受け取るのです。

こういうと、難しく思えますが。
先日、私は魔法の言葉を教わりました。

それは、「すごい!」という言葉。
確かに、このポジティブな言葉には、人を動かす力があるなぁ、と思うのです。

思えば、僕はあまり人を褒めるということをしてこなかったなぁ、と反省。
難しいことは、よく言うんですけども。
理屈では、人は動かないんですよね。

どうすれば、みんなを巻き込んで、良い世の中を作れるのか。
一人の力は小さいけど、良い影響を与えあうことで、たくさんの善意を集められるよう、頑張りたいと思っています。


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posted by メタマネ佐藤 at 18:48| Comment(0) | 日記