2019年05月10日

うったて。

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ついこの前まで知らなかったのですが。
書道でつかう「うったて」という言葉は岡山弁なのだそうですね。

岡山県人以外の人は、「なんのこと?」という感じだと思うのですが。
岡山県人にとっては、「いや、共通言語でしょ」と思った人も多いのではないでしょうか。

「うったて」というのは、書道の授業で先生から普通に習います。
横棒一本書く時に、グッとひと押し。
そんなところから、肝心要のポイントのことを「うったて」と言ったりもします。

あまりに普通に使っていたので、思いもよりませんでしたが。
他県ではまったくこの「うったて」を使わない、というではありませんか。

知ってるつもりで、知らないことってあるもんだなぁ。
当たり前のつもりで、当たり前でないことってあるもんだなぁ。

そんな新鮮な驚きを感じました。

ちなみに、他県では「おし」とか言うそうですね。
ほかにも、いろんな呼び名があるのかもしれません。
ご存知の方がおられたら、教えて下さいね。
posted by メタマネ佐藤 at 06:40| Comment(0) | 日記

2019年05月05日

瀬戸芸2019 開幕。

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今年は3年に一度の瀬戸内国際芸術祭。
僕は、この会期中くらいにしか島には行かないんだけど。
休みのたびに、行ける時にはできるだけ通って、のんびり芸術を楽しんでます。

写真は地元岡山の犬島ですね。
ゴールデンウィークは人手がえげつないだろうと思っていたので、今回の瀬戸芸はゆっくりめの参加スタートです。

若い頃は、あんまり興味なかったんだけど。
最近は美術館とか、お寺さんや神社巡りなんかもいいもんだ、と楽しく思うようになってきて。

とくにこの瀬戸芸は、地元開催ってこともあり、お休みの日には気軽に島通いを楽しんでいます。
芸術作品もいいけど。
どの島にも、いろんな物語があったりして。
人の営みってすごいなって思うんです。

島の暮らしは、明らかに不便なように思うけど。
いろんな事情があって、今はほとんど人がいなくなってしまった島もあるけれど。
芸術祭が開かれるようになってから、改めて活気付いて、人が増えたってところもあるんですよね。

だから、芸術だけでなく、島を楽しんでるって感じかな。
日常から切り離されて、いい意味で気持ちのリセットにもなります。
そんな感じで、のんびり過ごしてる人も多いように見えますね。

外国からのお客様もたくさんいらっしゃいますが、地元の人でも「あまり芸術には興味ない」って人も多いんじゃないかと思います。
地域おこしの意味もありますから、行ってみたい人は、ぜひメタマネにお声掛けを。
日にちが合えば、ワリカンで小豆島に行きましょう。

レンタカー借りて回りたいもので(笑)
posted by メタマネ佐藤 at 15:53| Comment(0) | 日記

2019年05月03日

平成から令和へ。

令和がはじまりましたね。
一つの時代が終わり、新たな歴史がはじまった。

お札の肖像画も変わるんですね。
だんだん、最近の人が肖像画になるんですね。

平成の時代は、たびたび大きな災害に見舞われ、天皇陛下が被災地訪問される姿が印象的でした。
振り返りの特番を見ていると、「あったあった」となつかしく思うことが多く。
やはり30年というのは、長い年月なんだなぁ、と実感させられたり。

思えば、平成の時代に入ったのは、僕が中学3年の時でした。
受験前だけど、あんまり勉強には身が入ってなかったなぁ。
やりたいことも特になかったし。

それから30年あまり。
いいおじさんになってしまったけど。
僕の中身はあんまり変わって無いような気もします。
あいかわらず、なにもかもいい加減なまま。

でも、やりたいことや、日々の生活に充実感を感じることは増えました。
いっぱい失敗したけど、やり直したいとは思わない。
嫌なこともたくさんあるけど、逃げ出したいとも思わない。

でも、そういうネガティブな気持ちも。
新しい時代を迎えるにあたり。

全てプラスに転換していけますように。
posted by メタマネ佐藤 at 18:27| Comment(0) | 日記

2019年05月02日

憶測と忖度。

憶測とは、「物事の事情や相手の気持ちなどを、確かな根拠もなくいい加減に推し量ること」を言います。
根拠もなく、自分勝手に推測してしまうので、良い意味では使われない言葉です。

それと、なんとなく似た意味に使われる忖度(そんたく)。

最近、忖度という言葉が、悪い使われ方になってますが。
本来、忖度とは「相手が言葉に出せない本音を察すること」を意味します。
つまり「察する」という、和を尊ぶ日本人らしい概念。
森友問題以降、よくない意味でつかわれるようになってしまいましたけどね。

憶測と忖度。

意味は全く違いますが、このふたつの概念が影響しているのだろうと感じる“よくない言葉”が、最近ネット上で踊っています。
それは「上級国民」という呼称。

悲惨な自動車事故を起こした高齢の加害者が、元高級官僚だと判明した後に。
政府関係者の忖度により、都合の悪い顔写真や個人情報を、ネットから削除した。
マスコミも忖度し、容疑者ではなく院長と呼称している。
これが、「上級国民だから逮捕されない」という憶測となり。
ネットニュースになって「上級国民」という言葉を拡散してしまっている。

私は、こういう考え方が「差別」の根っこだと思うのです。
そもそも人間には上級も下級もないのですから。

とはいえ、資本主義社会には、明らかに持つ者と持たざる者が存在する。
社会の中で、馴染める者と馴染めない者を生み出す。
経済や幸福度の格差に、憶測や忖度や承認欲求が加わって、「上級国民」という差別意識を形成する。

もともとインターネットには、事実関係の明らかでない、憶測に基づく情報が散乱しています。
SNSとなると、さらに好き勝手な憶測が飛び交って、無法地帯と化しています。

憶測はさらなる憶測を呼び。
人の気持ちを勝手に忖度し。
事実をどんどん都合よく捻じ曲げていく。
自らの主張の正しさを誇示し、承認欲求を満たす。

僕は思います。

いろんな憶測も忖度も自由だと思うけど。
差別という毒をばらまくのだけは、ご勘弁願いたい。
posted by メタマネ佐藤 at 14:00| Comment(0) | 日記

2019年04月25日

怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。

怒りは無謀に始まり 後悔に終わる。
(ブッダの言葉より)

怒りの感情に任せて、たとえば大きな声で怒鳴ったりすると。
たいてい良い結果を産みません。

若い頃なら、血気盛んで好ましい、ということになるのかもしれませんが。
ある程度年齢を重ねてくると、感情的になるのはみっともない感じがします。

ただ、怒りを覚えることというのは。
歳をとったからといって、減るわけではないように思います。

私もそれなりに歳をとって、それなりの立場や役割がありますから、理不尽だと思うことも、それなりに経験するようになりました。
おそらく、怒りを感じる場面というのは、若い頃より増えているように思います。

ただ、それでも、怒りを直接ぶつけるようなことは減りました。
この言葉にもあるように、怒りをぶつけたとしても、良い結果をもたらすことは少ない、という経験を、重ねてきたからなのかもしれません。

それでも時には、口から溶岩のような怒りの感情が噴出してしまうことがあって。
そんな時は、その当事者でなく、まわりの近しい人に愚痴をこぼしてしまったりして。
あとから「申し訳なかったな…」と思ったりします。

ブッダの言葉にもあるように。
多くの場合、怒りの感情は、後先考えずに吹き出して、冷静になってから考えてみると、なにも良い結果を生まなかった、ということがほとんどです。

ただ、その感情の発露は、大きなエネルギー源でもあり。
うまくコントロールできれば、力強い推進力、原動力ともなります。

だからこそ。
感情の勢いを、無謀にぶつけるのではなく。
前向きな推進力に転換していくことが必要で。
感情に流されるのではなく、具体的な行動に転換する。

そうすれば、「あんなことがあったけど、自分の勉強になっていた」と振り返ることもできるはず。

とりあえず、6つ数えて、気持ちを落ち着けるトレーニングから始めてみましょう。
posted by メタマネ佐藤 at 00:33| Comment(0) | 日記

2019年04月15日

ふりかえり。

きょうは、ブログを長らくお休みしていた訳について、振り返ります。

先日、休載していたのは「なんとなく」と書きました。
それは、たしかにその通りなのですが。
自分としては、それなりに考えもあってのことでした。

そこで今日は、その「なんとなく」を棚卸し。

もともと私がブログを一生懸命綴っていた訳は。
書くことが思考を鍛えるトレーニングになるな、と思ったことと。
私の考えに共感してくれるひとを増やしたい、というふたつの面がありました。

たとえば、一緒に働いている方に、自分の考えを知ってほしい、とか。
僕の腹の中がわかれば、一緒に安心して働けるんじゃないか、ということも考えたりしました。

いずれも、一定の効果はあったと思うのですが。
自分の内面にとっては、良い面ばかりではないように思うようになりました。

どんなことかというと。

文章を書くことで、知らない間に自我が肥大して頑固になってしまうこと。
もう一つは、外面ばかり気にして、良いことばかり書いてしまうことです。

ひとつめの「自我の肥大」。
自分ではなかなか気づかないものですが。
過去の自分を振り返り、今の自分に鑑みると、明らかに増長していたな、と思うのです。

自分など、そもそも何者でもない。
なのに、それなりに役職を経験したり、役割を期待されたりすると、自分で自分を「できる人」のように勘違いしてしまう。

思い上がってはいけない、と常々思ってはいたのですが。
自分の書いたことを、時間が経って振り返って見ると、そこには増長した醜い自分を見つけてしまう。

書くことは、考えをまとめて強化する、つまり思考のトレーニングには最適だと思うのですが。
知らない間に“偉そうな自分”を作り上げてしまう。
少なくとも、私は自分でそれを感じましたので、しばらく自分を見つめ直す時間が必要だ、と考えたのです。

次に、外面ばかりを気にしてしまう、ということ。

人間には承認欲求があります。
自分の考えを読んでもらって、共感してもらえると気持ち良い。
反面、否定されることはとても痛くて、わざわざ時間を費やしてまで人に何かを伝えようとは思わなくなってしまう。
だから、当たり障りのないことばかりを述べてしまう。

つまり、素直な気持ちは表現できないのです。
そうすると何のために時間をかけて文章を推敲しているのか、わからなくなってくる。
なんのために労力を割いているか、意味を感じなくなるのです。

いずれも、決定的ななにか、というわけではないのですが。
自分を見つめ直す時間が欲しいな、と。
そんな風に感じました。

また、仕事に専念する時間が必要だ、と思いました。
ブログは、もともと業務時間外に書いてましたから、そもそもあまり影響は無いのですけど。
それでも、それなりに労力はかかりますし。
自分の時間が削られますので。

そんなわけで、しばらく時間を置いたわけです。
自分を見つめ直す、というか。
自分が何者でも無いことを思い出す、という方が正しいかもしれません。

山本有三の著書に「路傍の石」という本があります。
その意味は「道端に転がる石ころのようなもの」ということです。
まぁ、そのへんの平凡な、つまらんものということですね。

しかし、石はただ転がっているわけではなく。
悠久の時を経て、今に至る。
人の一生など、はるかに超える歴史が詰まっているわけですね。
そう考えると、つまらなく見えるものにも意味が宿る、と気づく。
それでも、ただの石ころには変わりないのです。

僕は、そんな風に生きたい、と思うのです。
そう思うのも、自分自身が俗にまみれた人間だからなのでしょう。

もっと誠実な人間になりたい。
最近は、特にそう思うようになりました。
posted by メタマネ佐藤 at 06:43| Comment(0) | 日記

2019年04月04日

大変ご無沙汰しております。

実にご無沙汰しております、メタマネです。

半年以上ぴったりと更新が途絶えておりました。
そんなことで、なかには死亡説や失踪説が浮上していたようですが(笑)。

どっこい生きてるシャツの中、でございます。
これわかる人は中高年以上でしょうね(笑)

更新が当分なかったことについては、それなりに思うところもございまして。
それは、また改めて書かせてもらおうと思うのですけども。

まぁ、自分自身が異動になって環境が変わったこともあって。
なんとなく、忙しかったり。
正直、ネタがなかったり。

あとは、私の性格として。

やるときにはやる。
やらないときにはやらない。

そんな感じでございまして。

要するに、なんとなく、で随分時間が経過してしまった、と。
そんな感じなんですね。

ところが。

どうも、そうやって「まぁいっか」と思っていたのですが。
自分でも、思っていた以上に読んでくださっていたかたはおられたようで。
そんなマニアックな方々には、随分なご心配をおかけしていたようで。

なんどか「大丈夫ですか?」というお声掛けをいただきました。
心配してコメントを下さった方もいらっしゃいました。

…ありがとうございます。

メタマネは、元気でございます。
私の拙い文章でも、そうやって楽しみにしてくださる方がおられるのは、とてもありがたいことです。

平成が終わり、令和を迎えるにあたり。
細々とですが、時代の片隅で、メタマネブログもこっそり再開。

そんなわけで、今後も少しずつですが、気の向いたときには時々雑感をアップしていこうと思います。

これからも、時々メタマネブログを覗きにきていただけると嬉しいです。
posted by メタマネ佐藤 at 00:04| Comment(0) | 日記

2018年05月23日

責任の所在。

先日、アメリカンフットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に行ったタックルが、監督の指示によるものだったのかどうか、ということが大きな話題になってますね。
これまで会見に臨んできた大学の関係者の話では、「全て私の責任です」とは言うものの、具体的に危険なタックルを指示したのかどうか、ということについては明言を避けていました。

それに対して。

昨日、実際に危険なタックルを行った選手自らが、顔を晒して、その経緯を説明されました。
…なんというか、たまらない気持ちになりましたね。
淡々と、誠実に語る様子に、身につまされました。

本当に酷い話だと思います。
相手に怪我をさせるしかないような、そして「もうアメフトはやらない」と言わせるまで若者を追い込んでおいて、平気な顔でいる監督やコーチ。

まぁ、平気ではないのかもしれませんが。
それにしても許せない話だと思いました。

前監督は、「全て自分の責任だ」などと言いながら。
いまだに責任逃れのコメントを出し続けている大学関係者。
その言葉を要約すれば、「選手の捉え方が悪い」ってことでしかありませんから。

あのタックル。
ある意味殺人未遂とも言える悪質なもの。
ひょっとしたら、頸損などで、一生の障害を残す可能性だってあるほどの、危険なものだったはず。

「やるしかない」ところまで、人を追い詰めておきながら。
「もう二度とアメフトはやらない」と全国に向けて言わせるまで、人を追い詰めておきながら。

いい大人が、何も言わないつもりなのか。
そのまま、大学に留まり続けるつもりなのか。
それで、チームを運営するものとしての、教育機関としての責任を果たしたと言えるのか。

選手1人を、会見に臨ませるほど追い詰めた、大学関係者の責任は重い、と言わざるを得ません。

「全て私の責任です」というならば。
「そこまで選手の追い込んだ」という事実に対して、誠実にならなくてはいけない。

勇気を持って会見に臨んだ選手の姿勢に、敬意を表するとともに。
彼が今後、これ以上不利益を被ることがないように、祈るばかりです。
posted by メタマネ佐藤 at 06:46| Comment(2) | 日記

2018年05月15日

説教、昔話、自慢話。

年をとってやっちゃいけないのは「説教」と「昔話」と「自慢話」。
ーー高田純次

テキトー男、高田純次さん。
しかし、この言葉からは、大人の思慮分別を感じますね。

僕は、高田さんのこの言葉、大好きなんです。

常々思っておりますが。
「最近の若い奴は」というのは、ろくな言葉じゃない。
だって、若くてもしっかりしてる人は、山ほどいますから。
おたくの若い頃はどうだったんだよ、と言ってやりたい。

そっから言うと、高田さんは粋ですね。
…なんか江戸っ子みたいな感じですけど。

そこで今日は、「説教」「昔話」「自慢話」について、考えてみましょう。

まず「説教」。
僕は、これは全て悪いとは思いません。
だって、熟練者が若い人を育てるのは、必要なことですから。
学校の勉強では教わらない“社会”のあり方とか渡り方を、自分なりの言葉で伝えるのは、とても重要な「経験の口伝」だと思うんです。
悪いのは、年長者から若年者を支配せんとするための「説教」。
あるいは、目的なくダラダラ喋り続ける、聞いてほしいだけの「説教」です。
「説教」は、言葉の通り「説いて教え」ること。
聞いてる側が苦痛に感じるような「説教」は、教え方がヘタってこと。
つまり、愛情のない説教は恥ずかしい、と僕は思うのです。

次に「昔話」。
「昔は良かった…」みたいな話は、たしかに聞いてて気持ちいいものではないかもしれません。
しかし、過去があってこそ、今があるわけですから、これも無駄なはずがない。
歴史を語るのは必要なことですが、僕はそこにこだわり続けるのがよくないんだと思います。
前はこうだった、うちではずっとこうしてきた。
そう言われたら、新しいことや、改善につながることも、受け入れる余地がなくなってしまいます。
まぁ、平たく言えば頑固者ってことですかね。

最後に「自慢話」。
これは、ホントにつまらないですね。
なに過去の栄光にしがみついてんだよ、と思う。
酒でも入ってたら、仕方ないかもしれんけど。
そもそも自慢話なんてのは、自分で語るものでもないし。
人から認められてこそ、だし。
そこにこだわっている時点で、器の小ささを露呈してしまっているようなものですから。
自慢したくもなるときは、誰にだってあるかもしれませんが。
とにかく、かっこ悪い。
年長者の場合は、特に見るに耐えない感じになります。

高田さんの言葉や態度から感じるのは、とにかくそんなつまらない“こだわり”を捨てること。
それをテキトー男として実践しているのだとしたら、こんなにカッコイイ大人も、なかなかいないんじゃないか、と思ったりいたします。


iPhoneから送信
posted by メタマネ佐藤 at 23:40| Comment(0) | 日記

2018年05月05日

社会の寛容さと具体的な取り組みを。

最近、ある芸能人が起こした、アルコールと強制わいせつに関する話題がよく取り上げられます。
起きたことは、問題というより事件であり、その是非は言うまでもないことです。
ただ、ニュースを見ていて、ものすごく気になることがあるので、やや取り上げにくい話題ではあるのですが、私見を述べたいと思います。

まず、全体の印象として。
「メンバー」は、アルコール依存症なのだろうな、と感じます。
依存症には、嗜癖や薬物としてのアルコールの特徴、心理的要因や環境など、さまざまな側面がありますが。
彼の場合、嗜好を問題ある飲酒行動のレベルまで強めたのは、世間からの「見られ方」を、必要以上に求められ続ける立場にあったからではないか、というのが僕の見解です。

あの事務所の方には、時々こんな問題が見え隠れすることがあります。
僕は、その「見られ方」や「見せ方」へのこだわりが、とても大きな要因であるように感じるのです。

簡単に言えば、自分を表に出せない状況は、継続したストレスを抱えてしまう。
自分を解放できる対象に依存するようになる。
その対象として、手軽に手に入るお酒はうってつけ。

お酒が好きでも、「見られ方」が大事な仕事だから、居酒屋では気持ちよく飲めない。
泥酔したらスキャンダルで人生棒にふるもんね。
だから家飲み。
気がすむまで飲んだら、あとは寝るだけ。
止める人がいなければ、だんだんと量は増える。
普段はものすごくいい人なのに、お酒を飲むとリミッターが外れて、人が変わる。
自分では、酔っている時の自分の異常に気づけない。
そうやっていったんハマると、自力で抜け出すことは不可能。
彼の周りの人は気になってはいても、止められない、助けを求めることもできない。
ここでも「見られ方」が悪影響。
そして、事件につながった…。
…という感じではないかと思います。
僕の思い込みかもしれませんけどね。

依存症は、病気です。
公共の電波で、宣伝するようなものではそもそもありませんが、本人にとっては、受容がまずは大切となる、“否認の病”でもある。
「まさか自分がなるわけない」という否認が治療を遅らせ、回復を長引かせたり、重症化させたりするわけです。
こういうことは、認知症でも見られますが。
依存症には、特にそういったスティグマがありますよね。

社会的にも広く知られる存在である彼が。
後ろ指を指されながら、これから先の長い人生を生きていくには、どんな支えが必要になるだろう。
アルコールに頼らず、人の支えによって回復できるものなのだろうか。
そんなふうに思う。

つまり、「なぜ依存してしまうのか」の本質を解決しなくてはならないことと、回復を助ける“人の輪”が欠かせない、と僕は思うのです。

目を真っ赤に腫らして会見に臨み、衆人環視の中で誠実に語ろうとする「メンバー」の姿勢は、僕は立派だと思いました。
なのに、「戻る場所があるのなら…」という言葉を、仲間からはっきり否定されると、正直立っていられないし、立ち上がれないと思う。
大人としては正しい対応なのだと思いますけど、彼の回復を支えるような立場はとらないのだろうか、と少し疑問に思えました。

たぶん、男の友情みたいなものは、表に出すものじゃないし。
突き放す優しさ、あるいは厳しさが必要、ということも、あると思うのです。
テレビ向きのコメントも、必要でしょう。
彼らの仕事は、社会からの厳しい品定めを、たえず受け続ける仕事でもありますから。
画面に映らないところで、支えになっていかれるだろうと、僕は信じていますけどね。

さて、本題。

この問題を通じて僕が思うのは、社会全体の寛容さ、ということです。
彼が本当に依存症なのか、ということも、ここは切り離して考えます。

人間には色々な“顔”がある。
心理学的には、ペルソナ(仮面)と呼びますが。
「メンバー」の行動が大きなニュースになるのは、アイドルというペルソナに対する、社会からの期待や信託が、高すぎるために起きていることでもあります。
ペルソナは、あくまで仮面で、表層的な役割に過ぎないのに。

身近なところで例えるなら、医者や看護師、介護職だってペルソナな訳です。
本音をさらけ出して仕事するのではなくて、優しく受容的態度で接するという「仮面」をかぶって、僕らは社会からの要請に応えようとします。
なので、時々本能むき出しの看護師さんとかに出会うと、「こえ〜〜っ」と思ったりしますけどね(笑)。

で、アメリカの芸能人を例えに出すのも変ですが。
けっこうゴシップはヒドイし、めちゃくちゃやってますよね。
それなのに、仕事が良かったら、それなりに許されちゃう、みたいな風土がある。
あの国というのは、自由であり、競争が厳しくもあるけど、失敗に対しては本当に寛容だし、そこが羨ましいな、と思うところでもある。

だって、芸能人だって普通の人間なんですから。
心のバランスを崩すことだってあるだろうし、むしろ一般人より精神の安定を維持するのは、よほど大変なはず。
そこで、精神医学や心理学が発展し、社会としてもある程度それを受容する「懐の深さ」がある。
これ、精神障害とノーマライゼーションを考える上では、重要なことですよ。

翻って、我が国の場合。
なんだか器が小さいよね…。
規範を重んじるのが、日本人の良いところでもあるのは、確かだと思うんですが…。

で、この問題を社会的側面から見た場合。

あんまり厳しい「あり方」や「見られ方」ばかり求めるのは人権侵害だと、僕は思うんです。

本音をさらけ出して、テレビの前で泣いている人を、さらに叩くという神経が僕にはわからない。
酷い目にあった当事者が怒るのは当たり前だし、それでいいんです。
でも、今騒いでる人は、「そんな人だとは思わなかった」ってだけじゃないですかね。
関係ないやつは黙ってろ、と思う。
…あ、僕も無関係ですけどね。

で、その「あり方」や「見られ方」が、依存症の問題とも繋がってるし、引きこもりや精神を病む人の増加に繋がる。
社会のあり方の病理じゃないのか、というのが僕の本当に言いたいことなんです。

日本社会というのは、本当に“ちまちま”してる、と思う。
その「小ささ」が、偏見や差別の土台になるし。
障害者に対する意識の壁や偏見を生み出すものとも、根を等しくする。

だからこそ。
この問題を考察することで、社会の寛容さを問いたい。
そんな風に思いました。

あとは、何ができるか…なんだけど。
長くなったので、このへんで。
posted by メタマネ佐藤 at 08:19| Comment(0) | 日記