さぁ、だいぶ佳境に入ってきた感がある、短期連載「仏教」。
連載6回目の今日は、三法印を取り上げます。
三法印とは、
諸行無常(しょぎょうむじょう)
一切皆苦(いっさいかいぐ)
諸法無我(しょほうむが)
の三つ。
では、ひとつずつその意味するところを見ていきましょう。
まず、諸行無常。
平家物語の冒頭にもある言葉ですね。
後半の“無常”を、滅んでしまった平家と重ねて、悲壮感のある言葉のように捉えがちなんですが。
それは、“無常”を“無情”の意味と捉え違えています。
“無常”とは、「常に同じものはない」という意味。
“諸行”とは、あらゆる存在や現象を指します。
つまり、あらゆる物事は一定ではなく、変化し続けているという意味。
いつまでも若く、健康でいることなどできない。
全ての事象はうつろいゆくことを理解し、受容する。
それが、“諸行無常”の意味。
二つ目の一切皆苦。
これは、これまでの連載記事から見て貰うとわかりやすいです。
全てのことは、自分の思い通りにならない苦である。
なのに、人は全て自分の思い通りになると勘違いしてしまうことから苦を生ずる。
苦が生まれる仕組みを理解できれば、苦を遠ざけることはできる。
苦そのものはどうすることもできないのだから、自分の思い、捉え方を変えてみる、という工夫を学ぶべきなのだ。
そのためには、全てのものは思い通りにならない苦であるという自覚を持たなくてはならない。
すなわち、“一切皆苦”。
三つ目の諸法無我。
全てのものは、関連性の集合体である。
先週の因縁生起の考え方です。
例えば、玉ねぎの皮を全て剥いていくと、最後にはなにも無くなってしまう。
人間も同様であり、いくつかの要素の集合体が自分である。
つまり、自我があるように思うだけで、実態はないのである。
集合体を繋ぎ止める縁起の糸は、いずれほどけて我は離散する。
無いはずの“我”に執着しないことが理解できれば、苦しみは遠のく。
そこには絶対の神も、不滅の霊魂も無い。
あるのは、意識と現象の連鎖(すなわち法)だけである。
これが、諸法無我。
つまり。
「全てのものは変化し、うつろう。」
「世の全ては苦であるが、自分の捉え方を変えることはできる。」
「全ては縁起によって結ばれた一時的な状態であり、我は幻である。」
ということが三法印。
悟りに至る道とは、まさにこの三法印を徹底して理解することである、ということなんですね。
これに涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を入れて、四法印とすることもあります。
涅槃寂静は、悟りの境地にいたり、安寧な心を得た状態のこと。
仏像の穏やかな表情は、まさにこの涅槃寂静を表しています。
世に溢れる苦しみを癒し、悟りに至る道を拓いた仏陀。
それは、心の安寧を得るための哲学である、ということもできるでしょう。
さて次週は、いよいよ仏陀の生涯、悟りに至る道について取り上げます。
お楽しみに〜〜。
posted by メタマネ佐藤 at 21:32|
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